上総への疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/21 03:46 UTC 版)
慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発し、新政府軍が江戸に向け進軍する中、継子種倫の養子先原田市三郎の知行地上総国山辺郡平沢村(千葉県大網白里市小中)に家族を避難させた。3月15日、聖謨が自決を果たすと、大正寺で葬儀を取り仕切った後、初七日の21日に剃髪し、夫、幕府に対し末永く操を守る意を込めて松操と号した。 22日夜、小網町より舟で下総国浜村に逃れ、上総国平沢村の名主利右衛門宅に身を寄せた。
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