三菱21号館とは? わかりやすく解説

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三菱21号館

(三菱第二一号館 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 04:31 UTC 版)

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三菱21号館
情報
用途 事務所
設計者 藤村朗
建築主 三菱合資会社
事業主体 三菱地所
構造形式 鉄骨鉄筋コンクリート構造
建築面積
※530坪、附属家15坪
延床面積
※増築前2,153坪、増築後2,715坪
階数 地下室なし、地上4階
高さ 増築前52尺5寸
エレベーター数 2台
着工 1912年(大正元年)8月
竣工 1914年(大正3年)6月25日
改築 1963年(昭和38年)9月解体
所在地 東京都千代田区丸ノ内3-2
座標 北緯35度40分37.81秒 東経139度45分46.17秒 / 北緯35.6771694度 東経139.7628250度 / 35.6771694; 139.7628250
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三菱21号館みつびしにじゅういちごうかん)は、かつて日本東京都千代田区丸の内にあった建築物である。館名は第21号館であったが、三菱第21号館とも呼ばれた。

沿革

丸の内地区において多数の地所・建物を保有していた三菱合資会社により第21番目の洋風貸事務所として計画されたものであり、当時の東京府東京市麹町区有楽町1-1(後の東京都千代田区丸ノ内3-2、現・東京都千代田区丸の内三丁目3番1号)の地所において1912年(大正元年)8月より建設に着手され、1914年(大正3年)6月25日竣功となった[1]

1920年(大正9年)5月より同年12月25日にかけ、地上5階建てに増築される[1]

第二次世界大戦で日本が敗戦した後の1946年(昭和21年)3月22日、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) はこれを接収しソ連軍宿舎と成した[2]。同軍撤収後は極東空軍調達部・戦史編集部・沖縄基地建設設計部等に供される運びとなり、1953年(昭和28年)3月、1954年(昭和29年)1月11日、1956年(昭和31年)3月12日の順で段階的に解かれ、ついに同年5月をもって全てが三菱地所会社の手中となるに至った[2]

そして会社は新東京ビルヂング第2期建設の地所にあてるべく1963年(昭和38年)9月をもってこれを取り除いた[3]

建築概要

丸の内地区における鉄骨鉄筋コンクリート構造の嚆矢とされる[4]。設計は藤村朗によるものである。

21クラブ

当建物内においてはかつて「21クラブ」と称する親睦会が組織された[1]。入会資格は入居者であることとされ、新年宴会ならびに旅行が行事とされた[1]

出典

  1. ^ a b c d 『丸の内百年のあゆみ-三菱地所社史』 上巻191-195頁、資料・年表・索引187頁
  2. ^ a b 『丸の内百年のあゆみ-三菱地所社史』 上巻494頁、資料・年表・索引388-414頁
  3. ^ 『丸の内百年のあゆみ-三菱地所社史』 下巻110-112頁
  4. ^ 丸ビル改築計画(企業とオフィス戦略)(<特集>日本のオフィス)」 『建築雑誌』 第112集第1405号、24-28頁、日本建築学会、1997年4月20日。

参考文献

外部リンク




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