丁儀との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:45 UTC 版)
しかし216年、崔琰が丁儀の讒言から曹操の不興を買って自害に追い込まれると(徐奕伝)、それを不満に思った毛玠と曹操の関係も冷え込んだ。やがて毛玠も丁儀の讒言を受け(何夔伝)、それを信じて激怒した曹操に投獄されてしまった。鍾繇に厳しく尋問されたが、屈しなかったという。 和洽は毛玠の人事政策にかねてから不満を持っていたが、毛玠が投獄されると曹操に対し、毛玠に非があるか否かの確認のため、讒言の事実関係を明らかにする事を要請した(和洽伝)。また桓階が毛玠を弁護したため、毛玠は免職だけで助命された(桓階伝)。しかし家に戻り不遇の内に亡くなった。その性格の清廉潔白さは、毛玠伝に引かれた『先賢行状』にも記されている。 子は不遇をかこっていたが、魏王朝が成立した220年の詔勅により、郎中となった(文帝紀)。
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