レオポルト・フォン・シュレンク
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人物情報 | |
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生誕 | 1826年??月??日 ロシア帝国 |
死没 | 1894年1月8日 (-32歳没) |
出身校 | タルトゥ大学 |
学問 | |
研究分野 | 動物学・地理学・民族誌学 |
研究機関 | ピョートル大帝記念人類学民俗誌学博物館 |
レオポルト・フォン・シュレンク(英語: Leopold von Schrenck、ロシア語: Леопольд Иванович фон Шренк、1826年 - 1894年1月8日)は、ロシア帝国の動物学者、地理学者、民族誌学者である。
生涯
1826年、バルト・ドイツ人の家庭に生まれる。生地はサンクトペテルブルク南西のホテニである。タルトゥ大学で博士号を取得後、フンボルト大学ベルリンおよびケーニヒスベルク大学において自然科学を研究した。その後、彼はロシア帝国海軍の軍艦アヴローラの世界周航に博物学者として参加した。
アムール探検
1853年、サンクトペテルブルク科学アカデミーはシュレンクをアムール地方探検のため、スクーナー・ヴォストークに乗船させて派遣した。1854年、植物学者のカール・マキシモヴィッチとともにアムール川河口に到達した。1855年2月にはサハリンを訪れ、春から夏にかけてアムール川流域を探査した。1856年、バイカル湖を経由し、陸路でヨーロッパへ帰還した。これらの探検の成果は、1860年に著書『アムール地方の旅行と研究』(Reisen und Forschungen im Amur-Lande)として発表された。この功績により、彼はロシア地理学会からコンスタンチン・メダルを授与された。
後年と民族誌研究
晩年のシュレンクは、研究の焦点をロシアの原住民族へと移した。1879年11月10日、サンクトペテルブルクのピョートル大帝記念人類学民俗誌学博物館の館長に任命され、その分野の研究に尽力した。
シュレンクにちなむ学名
多くの動物種名がシュレンクに因んで名付けられている。
- アオガイ Notoacmea schrenckii
- アムールチョウザメ Acipenser schrenckii
- チョウセンナメラ Elaphe schrenckii
- コムラサキ属の一種(ロシア語名Переливница Шренка) Apatura schrenckii
脚注
先代 サンクトペテルベルクの民俗誌学および解剖学博物館を統合して新設 |
ピョートル大帝記念人類学民俗誌学博物館館長 1879–1894 |
次代 ヴァシリー・ラドロフ |
参考資料
- Mearns and Mearns - Biographies for Birdwatchers ISBN 0-12-487422-3
- Kunstkamera
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