リーナ・ブルーナ・ラーザとは? わかりやすく解説

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リーナ・ブルーナ・ラーザ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 09:52 UTC 版)

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リーナ・ブルーナ・ラーザ
Lina Bruna Rasa
生誕 (1907-09-24) 1907年9月24日
イタリア王国パドヴァ
死没 (1984-10-20) 1984年10月20日(77歳没)
イタリアミラノ
ジャンル クラシック
職業 ソプラノ歌手

リーナ・ブルーナ・ラーザLina Bruna Rasa, 1907年9月24日 - 1984年10月20日)は、イタリアソプラノ歌手[1][2]

生涯

パドヴァの生まれ。14歳から地元でグイド・パルンボとイタロ・タバリンに声楽を教わったあと、ミラノでマンリオ・バヴァニョーリの薫陶を受けた。1925年にポリテアマ・ジェノヴェーゼ劇場でアッリーゴ・ボーイトの《メフィストフェレ英語版》にエレナ役として出演してデビューを果たし、翌年にはレージョ劇場でも歌ったうえ、1927年にはアルトゥーロ・トスカニーニに見初められてスカラ座で同役で出演して脚光を浴びた。その後は、ニコライ・リムスキー=コルサコフの《サルタン皇帝》のイタリア初演や、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリの《スライ英語版》の上演等に参加し、イタリア国内のみならず、フランススペインエジプトの各都市の歌劇場に客演して名声を得た。1931年にはピエトロ・マスカーニの《カヴァレリア・ルスティカーナ》のサントゥッツァ役を歌ったが、この時、指揮をしていた作曲者本人に激賞され、この役が彼女の当たり役となった。1935年には同じくマスカーニの《ネローネデンマーク語版》の初演に参加したが、この年に母親を亡くした影響で、次第に精神的に変調をきたすようになり、1937年にはオペラ上演中にオーケストラ・ピットに転落する事故を起こしている。1942年ペーザロで《カヴァレリア・ルスティカーナ》を歌った後、ミラノの精神病院に入院し、事実上オペラ歌手として引退を余儀なくされた。1948年に再起をかけてツアーを組んだことがあるものの、結局病状が回復せず、歌手活動を断念した[3]

1984年10月20日ミラノにて生涯を閉じた。

1931年に《アンドレア・シェニエ[4]、40年に《カヴァレリア・ルスティカーナ》の全曲レコーディングを行っている[5]

出典

  1. ^ Lina Bruna Rasa Video”. Ovguide. 2014年6月27日閲覧。
  2. ^ 山崎浩太郎 (2005年9月2日). “第3回「ラ・マンマ・モルタ」”. HMV. 2014年6月27日閲覧。
  3. ^ LINA BRUNA RASA (b. Padova 1907 d. Milano 1984) – A tragic destiny!”. Opera Gems. 2014年6月27日閲覧。
  4. ^ ジョルダーノ:歌劇「アンドレア・シェニエ」(ミラノ・スカラ座管/モラヨーリ)”. Naxos Music Library. 2022年3月16日閲覧。
  5. ^ マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」(ミラノ・スカラ座管/マスカーニ)(1940)”. Naxos Music Library. 2022年3月16日閲覧。



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