ミハイル・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ミハイル・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミンの意味・解説 

ミハイル・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 16:48 UTC 版)

ミハイル・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミン伯爵

ミハイル・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミン伯爵(ロシア語: Михаи́л Петро́вич Бесту́жев-Рю́мин, ラテン文字転写: Mikhail Petrovich Bestuzhev-Ryumin1688年9月17日 - 1760年3月8日グレゴリオ暦パリ)は、ロシア帝国の外交官。ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンの息子、アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミンの兄。

生涯

弟のアレクセイとともにベルリンで教育を受けた後、1705年にロシア代表としてコペンハーゲンに派遣された[1]。1720年、ロンドン駐在に転じたが、グレートブリテン王国がロシア皇帝ピョートル1世バルト海における敵としてみている時期だったこともあり、ベストゥージェフ=リューミンがイギリス・スウェーデン同盟に抗議したときは全く聞き入れられなかった[1]。1721年にニスタット条約大北方戦争が終結すると、ベストゥージェフ=リューミンはストックホルム駐在大使に転任した[1]。1724年にロシア・スウェーデンの防衛同盟を12年間の期限付きで締結した後、1726年にワルシャワに、1730年にベルリンに転じたが、1732年にストックホルムに戻った[1]

1739年6月28日、スウェーデンの外交官シンクレアがコンスタンティノープルから帰国する途中にシュレージエンで殺害される事件がおきた[1]。この事件にベストゥージェフ=リューミンがどれだけ関わったのは定かではなかったが、彼がシンクレアの目的がロシアと敵対的であるとの情報とシンクレアの肖像画を本国に送ったことは確実である[1]。一方スウェーデンはベストゥージェフ=リューミンが主犯と決めつけ、1741年のハット党戦争を引き起こすこととなった[1]。ベストゥージェフ=リューミンはハンブルク、続いてハノーファーに転任、そこで英露同盟の締結に尽力した[1]

1743年に帰国すると、元帥に叙され、アンナ・ガヴリーロヴナ・ゴロフキナロシア語版と結婚した[1]。しかし、アンナは数か月後にロシア駐在フランス大使ラ・シェタルディ侯爵英語版の陰謀に巻き込まれ、むち打ちの後舌を抜かれ、シベリアに追放された[1]。ベストゥージェフ=リューミンは妻とともにシベリアに行かず、出国して外交官としての経歴を再開した。1760年3月8日、パリで死去した[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k Bain, Robert Nisbet (1911). "Bestuzhev-Ryumin, Mikhail Petrovich, Count" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 826.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ミハイル・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミン」の関連用語

ミハイル・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ミハイル・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのミハイル・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS