マルギト (東ローマ皇后)とは? わかりやすく解説

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マルギト (東ローマ皇后)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/19 14:01 UTC 版)

マルガリタ / マルギト
Μαργαρίτα / Margit
東ローマ皇后
テッサロニキ王妃
在位 東ローマ皇后:1185年 - 1195年1203年
テッサロニキ王妃:1205年 - 1207年
別称号 モンフェッラート侯妃

出生 1175年
死去 1223年以降
配偶者 東ローマ皇帝イサキオス2世アンゲロス
  モンフェッラート侯・テッサロニキ王ボニファーチョ1世
  ニコラ1世・ド・サントメール
子女 マヌエル・アンゲロス
ヨハネス・アンゲロス
デメトリオ・ディ・モンフェラート
ベーラ・ド・サントメール
ギヨーム・ド・サントメール
家名 アールパード家
父親 ハンガリーベーラ3世
母親 アニェス・ダンティオケ
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マルギト: Margit, 1175年 - 1223年以降)は、東ローマ帝国皇帝イサキオス2世アンゲロス皇后。父はハンガリーベーラ3世ギリシア語名はマルガリタ (Μαργαρίτα) 。

生涯

父の政略のため、東ローマ皇帝であったイサキオス2世と1185年に結婚した。2人の仲は良く、その間に彼女は2人の子供を出産している。しかし1195年、イサキオス2世の弟アレクシオス3世アンゲロスクーデターで夫と共に廃された上、幽閉された。その8年後の1203年アレクシオス4世アンゲロス(イサキオス2世と先妻の息子)を擁する第4回十字軍に助け出されたが、1204年に今度はアレクシオス5世ドゥーカスのクーデターにあい、夫は殺されてしまった。

その後、1205年にコンスタンティノープルで、十字軍のモンフェッラート侯ボニファーチョ1世エルサレムコンラドの弟)と再婚した。これも実はモンフェッラート侯の政略で、マルギトが東ローマ帝国の皇后であったという経歴を利用して、その権利によってラテン帝国の皇位を狙ったのであるが、果たせずサロニカ王となった。そして彼も1209年ブルガリア人クマン族との戦いで戦死すると、先妻の息子グリエルモ6世とマルギトの幼い王子デメトリオとの間に後継者争いが生じた。マルギトはラテン皇帝アンリ1世の援助を受けて、デメトリオに王位を継がせることに成功した。その後、自ら息子を後見したが、1223年、エピロス専制公テオドロス1世によってテッサロニキが包囲下に置かれると、彼女は故地ハンガリーに逃亡した。テッサロニキの陥落と王国の滅亡は翌1224年のことである。




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