マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 06:26 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン Maria Josepha von Bayern | |
|---|---|
| 神聖ローマ皇后 | |
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| 在位 | 1765年 - 1767年 | 
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| 全名 | Maria Josepha Antonia Walburga Felizitas Regula von Bayern | 
| 出生 | 1739年5月30日  神聖ローマ帝国  バイエルン選帝侯領、ミュンヘン | 
| 死去 | 1767年5月28日(27歳没)  神聖ローマ帝国  オーストリア大公国、ウィーン、シェーンブルン宮殿 | 
| 埋葬 |  神聖ローマ帝国  オーストリア大公国、ウィーン、カプツィーナー納骨堂 | 
| 結婚 | 1765年1月23日 シェーンブルン宮殿 | 
| 配偶者 | 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 | 
| 家名 | ヴィッテルスバッハ家 | 
| 父親 | 神聖ローマ皇帝カール7世 | 
| 母親 | マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ | 
マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン(Maria Josepha Antonia Walburga Felizitas Regula von Bayern, 1739年5月30日 - 1767年5月28日)は、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の2度目の妃、皇后。
生涯
皇帝カール7世(バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト)と皇后マリア・アマーリエの末子として、ミュンヘンで生まれた。
1765年1月、シェーンブルン宮殿で又従弟に当たるローマ王ヨーゼフと結婚した。その7か月後に舅フランツ1世が崩御したため、夫とともに戴冠し、皇后となった(実権は皇太后マリア・テレジアがウィーンの宮廷で掌握していた)。美男の夫を熱愛していたマリア・ヨーゼファだったが、ヨーゼフは最初の妻で美女だったイザベラを終生愛し続け、彼女には目もくれなかったため、結婚生活は不幸だった。肖像画からは想像できないが、ヨーゼフ2世は彼女のことを「背が低く太っている。歯並びはゾッとするほどで、全身が吹き出物でいっぱいだ」と記している。ヨーゼフの妹であるマリア・クリスティーナ大公女は、兄のヨーゼファに対する冷酷な仕打ちについて、「もし私が兄の妻だったら、絶対に耐えられない」と記している。
マリア・ヨーゼファは天然痘に罹患した。姑のマリア・テレジアは見舞いにいったが、ヨーゼフは気にもとめなかった。1767年5月に急逝したが、ヨーゼフはヨーゼファの葬式にも出席しなかった。亡骸はカプツィーナー霊廟に葬られた。ヨーゼフは再婚しないと宣言し、それを実行した。これにより、ハプスブルク家のヨーゼフに次ぐ後継者は、マリア・テレジアの次男であるトスカーナ大公レオポルトと目されるようになった。
参考文献
- 江村洋 『マリア・テレジアとその時代』 東京書籍、1992年
固有名詞の分類
| 神聖ローマ皇后 | エレオノーラ・マグダレナ・ゴンザーガ クラウディア・フェリーツィタス・フォン・エスターライヒ=ティロル マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ ビアンカ・マリア・スフォルツァ | 
| ヴィッテルスバッハ家 | マリア・アントーニア・フォン・バイエルン カール・フォン・バイエルン マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン フランツ・フォン・バイエルン クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルン | 
| オーストリアの后妃 | クラウディア・フェリーツィタス・フォン・エスターライヒ=ティロル アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ テオドラ・アンゲリナ | 
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