ヘンリー・コートネイ (初代エクセター侯爵)
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ヘンリー・コートネイ Henry Courtenay |
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初代エクセター侯爵 | |
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紋章が描かれたマントを身に着けているヘンリー・コートネイ(左から2番目)。ガーター騎士の行列の一部(ガーター騎士団の『黒写本(the Black Book)』、1535年頃、ウィンザー王室コレクション)。
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在位 | 1525年 - 1538年 |
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称号 | 第2代デヴォン伯:1511年 - 1538年 |
出生 | 1498年ごろ![]() |
死去 | 1538年12月9日![]() |
配偶者 | 第5代ライル女男爵エリザベス・グレイ |
ガートルード・ブラント | |
子女 | エドワード |
家名 | コートネイ家 |
父親 | 初代デヴォン伯ウィリアム・コートネイ |
母親 | キャサリン・オブ・ヨーク |

初代エクセター侯爵ヘンリー・コートネイ(Henry Courtenay, 1st Marquess of Exeter, 1498年ごろ - 1538年12月9日)は、デヴォンのオークハンプトンおよびプリンプトンの領主で、ティヴァートン城、オークハンプトン城、コルコム城を所有した。イングランド王エドワード4世の外孫であり、王妃エリザベス・オブ・ヨークの甥、ヘンリー8世の従兄弟にあたる[2][3]。
ヘンリー8世の親友であり、「幼い頃から陛下の部屋で育てられた」[4]。当初は修道院の解散を支持し、抗議活動の鎮圧に尽力したが、その後、修道院の解散措置とイングランド教会の残酷さに確信を抱くようになり、枢機卿レジナルド・ポールと文通していたためヘンリー8世の治世下で処刑された。
出自
ヘンリーは、初代デヴォン伯ウィリアム・コートネイ(1475年 - 1511年)と妻キャサリン・オブ・ヨーク(1527年没)の息子、相続人として1498年頃に生まれた[5][6]。キャサリン・オブ・ヨークはエドワード4世と王妃エリザベス・ウッドヴィルの六女である。したがって、母方の従兄弟にはヘンリー8世がいた。
生い立ち
1498年にヘンリーが生まれた当時、父方の祖父である初代デヴォン伯エドワード・コートネイ(1509年没)はまだ存命であり、父ウィリアムはその長男で法定相続人であった。1504年、テューダー朝のヘンリー7世の治世下、父ウィリアムはヨーク家の有力な王位請求者である第3代サフォーク公エドマンド・ド・ラ・ポールとの文通を告発され、1504年2月に国王ヘンリー7世はウィリアムをロンドン塔に幽閉するよう命じ、これによりウィリアムは父エドワードの伯位を継承できなくなった[5]。
ヘンリー7世は1509年4月22日に崩御し、その直後の1509年5月28日には初代デヴォン伯エドワード・コートネイが崩御した。ヘンリー7世の後を継いだのは息子のヘンリー8世で、ウィリアム・コートネイの妻の甥にあたり、ウィリアムはロンドン塔から解放された。1509年6月24日、ウィリアムはヘンリー8世の戴冠式に出席し、式典中に第三の剣を携行した。ウィリアムはヘンリー8世の寵愛を受け、1511年5月9日にはヘンリー8世から剥奪処分が覆され、1511年5月10日にはデヴォン伯に叙せられ、残余権は通常通り男性の相続人に与えられることとなった[5]。ウィリアムは1か月後の1511年6月9日、伯爵としての正式な叙任式を完了する前に死去したが、王室の令状により伯爵にふさわしい栄誉をもって埋葬された。
デヴォン伯位
1511年6月9日に父ウィリアムが崩御すると、ヘンリーは特許状に基づき1511年に父に与えられたデヴォン伯位を継承した。さらに1512年12月には、1504年に父に下された私権剥奪の(より正式な)撤回を議会から得て、祖父の保持していたデヴォン伯位をも継承した[5][注釈 2]。
当時、ヘンリーの従兄弟であるヘンリー8世は、フランス王ルイ12世とのカンブレー同盟戦争に参戦していた。新しくデヴォン伯となったヘンリーは、1513年に軍艦の副艦長として最初の戦闘を経験した。
ヘンリーは1510年代に、ヘンリー8世のさらなる寵愛を得たようである。ヘンリーは1520年に枢密院のメンバーとなった。1520年6月にはヘンリー8世に同行してカレーに行き、金襴の陣でフランス王フランソワ1世と会見し[5]、ヘンリー8世の放蕩で活動的な友人の一人となり、ヘンリー8世やその寵臣である初代サフォーク公チャールズ・ブランドンと頻繁に狩猟旅行に出かけた。
1521年、第3代バッキンガム公エドワード・スタッフォードが反逆罪で処刑され、ガーター騎士団員に空席が生じたため、ヘンリー8世は1521年6月9日にヘンリー・コートネイをガーター騎士に任命し、バッキンガム公の没収された領地と財産の一部を与えた[6]。1522年4月、ヘンリーはケントのバーリング・パークの管理人に任命され、この時期に枢密院で最大の権力を握った[5]。ヘンリーがブーリン家と出会ったのはおそらくこの頃である。ヘンリーはコートネイ家の伝統的な世襲職であるスタナリー管区総監および1523年5月からコーンウォール公爵領の家令を務めた。1525年にはウィンザー城の執政官に任命された[5]。
エクセター侯位
1525年6月18日、ヘンリー8世はヘンリー・コートネイを「デヴォン伯、オークハンプトンとプリンプトンの領有者」(すなわちオークハンプトンとプリンプトンの領主)として、エクセター侯爵に叙した[2][7]。当時、フランス王フランソワ1世はパヴィアの戦いに敗れ、神聖ローマ皇帝カール5世の捕虜となっていた。ヘンリー8世は、新たにエクセター侯爵を派遣し、フランス摂政ルイーズ・ド・サヴォワとの合意を確保し、フランソワ1世の返還交渉においてイングランド王の援助を約束させた。
エクセター侯ヘンリーは、キャサリン・オブ・アラゴンとの婚姻無効の手続きにおいてもヘンリー8世のために尽力し、その件に関して教皇クレメンス7世に宛てた書簡に署名した。枢密院において、ヘンリーは国王に次ぐ地位に就き、枢機卿トマス・ウルジーが反逆罪で告発され、その訴追文書に署名した。1533年には、キャサリンの正式な婚姻無効手続きの委員を務めた[2]。
ヘンリー8世は修道院解散の準備を進めていた1535年、エクセター侯ヘンリーに複数の修道院の管理権を与え、これによりヘンリーは今後の手続きにおいて重要な立場に就いた。1536年、ヘンリーは姦通、近親相姦、そして大逆罪で告発されていたヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンの裁判で委員を務めた。
エクセター侯ヘンリーと初代サフォーク公チャールズ・ブランドンは、1536年10月15日に勃発したカトリック教徒の反乱「恩寵の巡礼」を鎮圧するため、ヨークシャーへ派遣された[2]。ヘンリーはこの任務に失敗し、デヴォンシャーに撤退した。1537年5月15日、ヘンリーは反乱の指導者として告発された初代ダーシー・ド・ダーシー男爵トマス・ダーシーの反逆罪裁判で大執事を務めた[2]。
凋落と死
1530年代後半までに、エクセター侯ヘンリーは宮廷で影響力を持つ人物となり、イングランド西部の大部分を自らとヘンリー8世の名のもとで統治した。ヘンリーはまたトマス・クロムウェルの政敵でもあり、二人はほとんど相容れることはなかったと伝えられている。
宗教改革後も、ヘンリーの2番目の妻であるガートルード・ブラントはカトリック教徒であり続けた。ガートルードはエリザベス・バートンの失脚まで彼女を支え、カトリック教徒であった元王妃キャサリンとはその死まで文通を続けた。ガートルードの父はキャサリン王妃の侍従を務め、継母はキャサリンが皇太子妃時代に侍従の一人を務めていた。クロムウェルはこれらの人脈を利用して、ヘンリーの忠誠心に疑いの目を向けさせた。
西部地方で有力な領主であったとしても、ヘンリーは小作人の苦しみに目をつぶっていたわけではなかった。修道院の解散により、多くの信徒や聖職者が土地や家を追い出され、ヘンリーは教会総代理クロムウェルとプロテスタント一派を憎むようになった。その「政策は…彼にとって非常に不快なものとなり、彼はポール家と反逆的な陰謀を謀った」[2]。ヘンリーは1538年の西部の反乱においてカトリックのポール家とともに参加し、デヴォンとコーンウォールの人々を奮い立たせようとした[2]。コーンウォールのリザード半島にあるセント・ケバーンでは、地元の村々を回って住民に反乱を呼びかけた旗が描かれたと伝えられている。
しかし、マドレーヌ・ホープ・ドッズは、陰謀など存在しなかったと主張している。「彼らは政治的な党派というより、古き信仰を愛し、クロムウェルを憎み、政策転換を切望する友人の集まりであった。彼らは集まって反逆について語り合い、政治的な歌を歌った…陰謀のような骨の折れる知的なことには心を煩わせなかった」[8]。バーナード・バークは、エクセター侯はポール家に対する国王の嫉妬の犠牲になったと述べている[6]。
ヘンリーは、亡命したレジナルド・ポール枢機卿と文通していたことが判明した。枢機卿の弟であるジェフリー・ポールは、ローマ・カトリック教会による陰謀が企てられているという情報をロンドンにもたらした[2]。レジナルドとジェフリーはこの陰謀を主導したと非難され、クロムウェルはエクセター侯ヘンリーが陰謀に加担していると国王を説得した。おそらく自身の最期を予期していたのか、ヘンリーは1538年9月25日に遺言を書いた[9]。
1538年11月初旬、エクセター侯ヘンリーは妻と息子のエドワード・コートネイと共に逮捕され、ロンドン塔に投獄された。1538年12月3日、ヘンリーはウェストミンスター・ホールで貴族らによる裁判にかけられたが、いわゆるエクセター陰謀事件への関与を示す証拠はほとんどなかったが、ローマのポール枢機卿との書簡が原因で有罪判決を受けた。1538年12月9日、エクセター侯ヘンリーはタワー・ヒルにおいて、枢機卿とジェフリーの兄である初代モンタギュー男爵ヘンリー・ポールと、従兄弟エドワード・ネヴィルと共に、剣で斬首された[2][10]。ヘンリーは私権およびデヴォン伯位を剥奪され[2]、コーンウォールにあった領地はコーンウォール公爵領に併合された。
1539年、妻ガートルードと息子エドワードは共に私権を剥奪され、ガートルードの領地(サー・ウィリアム・セイから相続した領地を含む)は王室に没収された[11]。ガートルードは1540年に釈放され、その後もヘンリー8世の長女メアリーと生涯友情を続けた。メアリーの即位後、その命により息子のエドワード・コートネイは1553年8月3日に釈放され、その後メアリーの求婚者となった。
結婚と子女
ヘンリーは二度結婚した。1515年6月以降に第2代ライル子爵ジョン・グレイと、第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの娘ムリエル・ハワードの間の娘で女子相続人の第5代ライル女男爵エリザベス・グレイ(1505年 - 1519年)と結婚した[6]。エリザベスは後に初代サフォーク公となるチャールズ・ブランドンの保護下にあり、わずか8歳でチャールズ・ブランドンと婚約した。しかし、ブランドンがヘンリー8世の妹メアリー・チューダーと結婚したため、婚約は破綻した。この時、エリザベスはキャサリン・オブ・ヨークの保護下に入り、キャサリンはエリザベスを息子ヘンリー・コートネイと婚約させた。エリザベスは結婚後まもなく、子供を残さずに亡くなった[2]。
1519年10月25日に第4代マウントジョイ男爵ウィリアム・ブラントの娘ガートルード・ブラント(1499年頃/1502年 - 1558年9月25日)と再婚した[2][5]。1537年10月、ガートルードはエリザベス王女の名付け親を務め、ハンプトン・コート宮殿で行われた王妃ジェーン・シーモアの葬儀前の儀式ではメアリー王女の代理を務めた[12]。ガートルードは1538年11月5日に夫と共に逮捕され、1539年7月に夫の未亡人として売国行為を宣告され、数年間投獄されたが、メアリー1世によって売国行為の判決が覆され、メアリー1世の侍女となった。ガートルードは1558年9月25日に亡くなり、ドーセットのウィンボーン・ミンスターに埋葬された[2]。ガートルード・ブラントとの間には2男が生まれた。
- ヘンリー - 早世
- エドワード(1527年頃 - 1556年) - ロンドン塔に15年間幽閉されていたが、1553年8月3日、メアリー1世の即位から数日後に釈放された。1553年9月3日、メアリー1世はエドワードをデヴォン伯に叙した[5]。
注釈
- ^ しかし、ウィリアム・ハーディングの『The History of Tiverton in the County of Devon, Volume II, Book IV』によると、この彫像ははるか以前に第2代/第10代デヴォン伯ヒュー・ド・コートネイ(1303年 - 1377年)によって建立されたとされている[1]。ハーディングはヒュー・ド・コートネイをガーター騎士であると誤って述べているが、どうやら彼を息子のサー・ヒュー・コートネイ(1326/7年 - 1349年)と混同していたようである。サー・ヒューは騎士団創設時のメンバーの1人ではあったが、父より先に亡くなっていたためデヴォン伯にはなれなかった。
- ^ 1511年5月9日に受けた刑罰の取り消しが1512年12月に繰り返される必要があった理由は明らかにされていない。
脚注
- ^ Harding 1847, p. 6, footnote.
- ^ a b c d e f g h i j k l m Cokayne 1916, p. 331.
- ^ Pole 1791, p. 10.
- ^ Ives 1986, p. 125.
- ^ a b c d e f g h i Cokayne 1916, p. 330.
- ^ a b c d Burke 1914, p. 618.
- ^ Patent Roll, 17 Hen. VIII (1525), 2
- ^ Dodds 1915, p. 311.
- ^ Letters and Papers of Henry VIII, pt 1, 793–7
- ^ Cooper 2008.
- ^ “Parishes: Essendon Pages 458-462 A History of the County of Hertford: Volume 3. Originally published by Victoria County History, London, 1912.”. British History Online. 2025年8月31日閲覧。
- ^ “Spelthorne Hundred: Hampton Court Palace, history Pages 327–371 A History of the County of Middlesex: Volume 2, General; Ashford, East Bedfont With Hatton, Feltham, Hampton With Hampton Wick, Hanworth, Laleham, Littleton. Originally published by Victoria County History, London, 1911.”. British History Online. 2025年8月31日閲覧。
参考文献
- Harding, Lt-Col. William (1847). The History of Tiverton in the County of Devon. Volume II, Book IV. Tiverton
- Weir, Alison (1998). Henry VIII. London
- Cokayne, G. E. (1916). Gibbs, Vicary & Doubleday, H. Arthur. eds. The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart). 4 (2nd ed.). London: The St Catherine Press
- Pole, William (1791). Collections Towards a Description of the County of Devon: By Sir William Pole, of Colcombe and Shute, Kent.; (who Died A.D. 1635;) Now First Printed from the Autograph in the Possession of His Lineal Descendant Sir John-William De la Pole, Bart. of Shute, &c. in Devonshire. United Kingdom: J. Nichols; and sold by Messrs White and Son, Fleet Street; Robson, Bond Street; Leigh and Sotheby, York Street, Covent Garden; and Payne, junior, Mews Gate. p. 10 2021年1月16日閲覧。
- Ives, Eric (1986). Anne Boleyn. Blackwell. ISBN 9780631147459
- Burke, Bernard (1914). Burke's Genealogical and Heraldic History of Peerage, Baronetage and Knightage. London: Harrison and Sons. p. 618
- Dodds, Madeleine Hope (1915). The Pilgrimage of Grace (1536–1537) and the Exeter Conspiracy (1538). Vol. II. Cambridge University Press. p. 311
この記述には、アメリカ合衆国内でパブリックドメインとなっている記述を含む。
- Cooper, J. P. D. (January 2008). “Courtenay, Henry, Marquess of Exeter (1498/9–1538)”. Oxford Dictionary of National Biography (online ed.). Oxford University Press
- Davies, C. S. L. (1976). Peace, Print and Protestantism, 1450–1558. London
宮廷職 | ||
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先代 ヘンリー・マーニー |
スズ鉱山裁判所長官 1523年 - 1538年 |
次代 ジョン・ラッセル |
イングランドの爵位 | ||
爵位創設 | エクセター侯 1525年 - 1538年 |
剥奪 |
先代 ウィリアム・コートネイ |
デヴォン伯 第4期 1511年 - 1538年 |
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