ウィリアム・コートネイ (初代デヴォン伯)
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ウィリアム・コートネイ William Courtenay |
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初代デヴォン伯 | |
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初代デヴォン伯ウィリアム・コートネイの紋章。第1および第4クウォーターはコートネイ家の紋章、第2および第3クウォーターはレッドヴァース家の紋章。
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在位 | 1511年 |
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出生 | 1475年 |
死去 | 1511年6月9日 |
埋葬 | ![]() |
配偶者 | キャサリン・オブ・ヨーク |
子女 | ヘンリー マーガレット エドワード |
家名 | コートネイ家 |
父親 | 初代デヴォン伯エドワード・コートネイ |
母親 | エリザベス・コートネイ |
初代デヴォン伯ウィリアム・コートネイ(William Courtenay, 1st Earl of Devon, 1475年 - 1511年6月9日)は、オークハンプトンおよびプリンプトンの領主で[2]、デヴォンの有力貴族。本拠地はデヴォンのティヴァートン城で、オークハンプトン城とコルコム城にも居を構えていた。
生涯
出自
ウィリアムは初代デヴォン伯エドワード・コートネイとモランドのサー・フィリップ・コートネイ(1445年生)の娘エリザベス・コートネイの息子である。母の父サー・フィリップはパウダーハムのサー・フィリップ・コートネイ(1404年1月18日 - 1463年12月16日)と初代ハンガーフォード男爵ウォルター・ハンガーフォード(1449年没)の娘エリザベス・ハンガーフォードの次男である。ウィリアムの両親は遠縁であり、第2代デヴォン伯ヒュー・コートネイ(1303年 - 1377年)が共通の祖先であった。
経歴
ウィリアムは、チューダー朝最初の王ヘンリー7世(1485年 - 1509年)の支持者であり、1487年11月25日の王妃エリザベスの戴冠式で、ヘンリー7世から騎士とされた。また、王軍では隊長として従軍し、1497年のエクセターの包囲戦で父を助けて王位僭称者パーキン・ウォーベックを破り、最終的にチューダー朝の王位を確実なものとした。
反逆
しかし、ウィリアムは王に対し反逆を企てたとして寵愛を失った。ヘンリー7世は、ウィリアムがヨーク家の最後の王位請求者である第3代サフォーク公エドマンド・ド・ラ・ポール(1513年没)を戴冠させようとする陰謀に加担していたことを知った。この共謀の罪で、ヘンリー7世は1504年2月にウィリアムをロンドン塔に幽閉し、私権を剥奪した。
恩赦と私権回復
ヘンリー8世(1509年 - 1547年)によって牢獄から釈放されたウィリアムは、1509年6月24日の戴冠式で恩赦と剣士としての権利と特権の回復を受けた。ウィリアムが生前に正式に伯位を回復していたかどうかは議論の余地がある[注釈 4]。しかし、いくつかの資料では、ウィリアムが国王、従兄弟のサー・トマス・クニヴェット、サー・ウィリアム・ネヴィルとの馬上槍試合の後、1511年5月10日に伯爵の称号と領地を完全に取得したと主張している。
死
ウィリアムは1511年6月9日に胸膜炎で亡くなり、ロンドンのブラックフライアーズに埋葬された。
結婚と子女
1495年10月、ウィリアムはエドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの6女で、ヘンリー7世の王妃エリザベス・オブ・ヨークの妹であるキャサリン・オブ・ヨークと結婚した。ウィリアムとキャサリンの間には3子が生まれた[3]。
- ヘンリー(1496年頃 - 1539年) - 初代エクセター侯爵。第5代ライル女男爵エリザベス・グレイと結婚、ガートルード・ブラントと再婚[3]。
- エドワード(1497年 - 1502年7月12日)
- マーガレット(1499年頃 - 1526年以前) - 第2代ウスター伯ヘンリー・サマセットと結婚[3]
娘マーガレットのものとされる彫像
伝承によると、「リトル・チョーク・ア・ボーン」のあだ名をもつマーガレット・コートネイ(1512年没)は、初代デヴォン伯ウィリアム・コートネイとその妻でエドワード4世の6女キャサリン・オブ・ヨーク[3]との間に生まれた幼い娘であるとされる彫像が現存する。この像はデヴォンのコリトン教会に現存している。この像の長さは約90センチで、成人像としてはごく小さい。顔と頭部は1907年に修復され[4]、彫刻家自身の幼い娘をモデルに作られたと言われている。コートネイ家の居城の一つは、コリトン教区内のコルコム城であった。上の19世紀の真鍮の銘板には、「デヴォン伯ウィリアム・コートネイとイングランド王エドワード4世の末娘キャサリン王女の娘マーガレットは、1512年にコルコムで魚の骨に窒息して亡くなり、この教会の北翼廊の窓の下に埋葬された」と刻まれている。
この像の記述には誤りがあるようで、記録によるとマーガレットは1520年7月2日時点ではまだ存命で、ヘンリー8世の娘メアリー・チューダーに仕えていた。しかし、当時の別の貴族、第2代ノーフォーク公トマス・ハワードは、存命中の息子2人をトマス、娘2人をエリザベスと名付けていた。したがって、コートネイ家には同時期にマーガレットという名前の娘が2人いた可能性もある。
紋章
彫像の上には、コートネイ家の紋章、イングランド王家の紋章がインペイルメントされたコートネイ家の紋章、イングランド王家の紋章の3つの紋章がある。後世の専門家は[5][6][7]、この紋章に基づき、この像は第5代/第13代デヴォン伯トマス・コートネイ(1414年-1458年)の妻マーガレット・ボーフォート(1409年頃 - 1449年)ではないかと提唱している。マーガレット・ボーフォートは初代サマセット伯・ドーセット侯ジョン・ボーフォート(1373年 - 1410年、初代ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント(エドワード3世の4男)と愛妾キャサリン・スウィンフォード(後に妻)との間に生まれた4人の庶子の長男)と、その妻マーガレット・ホランドとの間に生まれた娘である。この根拠は、描かれている「王家の紋章」がエドワード4世の紋章ではなく、ボーフォート家の紋章であるという説である。ボーフォート家の紋章は、イングランド王室の紋章に銀色と青色のボーデュアがなされたものである[注釈 6]。
注釈
- ^ コートネイ家とスピーク家の間に婚姻関係はなかったようであるが、コートネイ家の紋章は、デヴォンで最も権力のある伯爵への敬意を表して掲げられたのかもしれない。紋章:バロン:第1・第4クウォーターはコートネイ家の紋章、第2・第3クウォーターはレッドヴァース家の紋章(獅子は黒ではなく青であるべき。修復ミスの可能性あり)、インペイルメント:妻キャサリン・オブ・ヨークの父エドワード4世(1461年 - 1483年)の紋章。エスカッシャンを囲むバラは、ここに示されているようなランカスター伯の赤いバラではなく、ヨーク伯の白いバラであるべきで、修復ミスの可能性がある。上記のバッジ(ダチョウの羽根飾りで飾られたコートネイ家のクレストではない)は、薔薇戦争時代に採用されたと思われ、鷲の姿に変装した神々の王ユピテルが、その象徴である雷を爪に掴んでいる様子が描かれている。これは古代ギリシャ・ローマの硬貨によく見られる有名な図像である。中世の貴族は、古典時代のカメオなどの貴重品を珍品として宝物棚に保管していたため、この図像はよく知られていたであろう。
- ^ これらの紋章は、キャサリンの叔父であるラトランド伯エドマンド・オブ・ヨーク(1443年 - 1460年)と、異母兄である初代ライル子爵アーサー・プランタジネット(1542年没)も用いていた。この紋章は、ヨーク家がエドワード3世の3男であるクラレンス公ライオネル(1338年 - 1368年)の子孫であることを強調しており、彼らの王位継承権はこの血縁関係に基づいていた[1]。
- ^ 鷲の姿をした神々の王ジュピターが、爪に神の印である雷を掴んでいる。このコートネイ家のエンブレムは、教会の内陣のアーチにある父親の紋章の上にも見られる。鷲の両脇にはヨーク家の白バラが2本配されている。左側の支えはコートネイ家のイルカとみられる。この玄関は、ティバートンの商人ジョン・グリーンウェイ(1460年 - 1529年)によって1517年にチャントリー礼拝堂とともに建てられたもので、葱花アーチの両側のスパンドレルにはグリーンウェイのモノグラムが見られる。グリーンウェイは、ティバートンの荘園領主で権力のある伯爵への敬意の印として、自分の建物にコートネイ家の紋章を加えた。伯爵の居城は教会の北に隣接していた。
- ^ Debrett's Peerage, 1968, p.354には、ウィリアムが伯位の回復を受けるまで生きられなかったと記されている。
- ^ 盾の上部の水平線はレイブルの一部であり、コートネイ家の紋章におけるディファレンシング・チャージである。
- ^ 「ジョン・オブ・ゴーントの孫娘の像は、その上にコートネイ家とボーフォート家(原文ママ)の盾を掲げ、コリトン教会にある。この像は実物大より小さく、村には「リトル・チョーク・ア・ボーン」、つまり第10代伯の幼い娘で「魚の骨で窒息死した」娘を表しているという伝説が残っている。盾と15世紀の衣装が証拠として残されているにもかかわらず、この伝説は真鍮の板に刻まれた碑文によってさらに強固なものとなっている。そして1907年、無知なる者が彫刻家を雇い、この像の壊れた顔に幼い子供の顔を新たに彫り込むという、醜悪な行為が行われた。」[4]
脚注
- ^ “The House of York”. Bed and Breakfast Guide. 2025年8月17日閲覧。
- ^ Pole 1791, p. 10.
- ^ a b c d e Vivian 1895, p. 245.
- ^ a b c Barron 1911, pp. 324–326.
- ^ “Courtenay”. Encyclopædia Britannica (11th ed.). (1911)
- ^ Pevsner & Cherry 2004, p. 280.
- ^ Hoskins 1959, p. 373.
参考文献
- Cokayne, G.E. (1910–59). Complete Peerage (new ed.)
- Great Britain. Parliament. House of Lords; Richard Bligh (1829). New Reports of Cases Heard in the House of Lords, On Appeals and Writs of Error. London: Saunders and Benning 2008年1月26日閲覧。
- “thepeerage.com”. 2008年1月26日閲覧。
- “familysearch.org”. 2008年1月26日閲覧。
- Pole, Sir William (1791). Sir John-William de la Pole. ed. Collections Towards a Description of the County of Devon. London
- Vivian, Lt. Col. J.L., (Ed.) (1895). The Visitations of the County of Devon: Comprising the Heralds' Visitations of 1531, 1564 & 1620. Exeter
- Barron, Oswald (1911). Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 7 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 324–326. . In
- “Courtenay”. Encyclopædia Britannica (11th ed.). (1911)
- Pevsner, Nikolaus; Cherry, Bridget (2004). The Buildings of England: Devon. London. p. 280
- Hoskins, W.G. (1959). A New Survey of England: Devon. London (first published 1954), p.373
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