ブランシュ・ド・ヴァロワ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:02 UTC 版)
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ブランカ Blanca / Blanka |
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ローマ王妃 ボヘミア王妃 |
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ブランシュ・ド・ヴァロワとカール4世
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在位 | ローマ王妃:1346年7月11日 - 1348年8月1日 ボヘミア王妃:1346年8月26日 - 1348年8月1日 |
戴冠 | 1347年9月2日 聖ヴィート大聖堂 |
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出生 | 1316年頃 |
死去 | 1348年8月1日![]() |
埋葬 | ![]() |
結婚 | 1329年 |
配偶者 | ローマ皇帝・ボヘミア王カール4世 |
子女 | マルガレーテ カタリーナ |
家名 | ヴァロワ家 |
父親 | ヴァロワ伯シャルル |
母親 | マオー・ド・シャティヨン |
ブランシュ・ド・ヴァロワ(仏:Blanche de Valois, 1316年頃 - 1348年8月1日)は、ローマ皇帝およびボヘミア王カール4世の最初の妃。ドイツ名およびチェコ名はブランカ (Blanca, Blanka)。ヴァロワ家の祖ヴァロワ伯シャルルと3番目の妻マオー・ド・シャティヨンの娘で、フランス王フィリップ6世の異母妹。
生涯
1329年、当時パリの宮廷で養育されていたカール4世と結婚した。夫カールは1331年以降イタリア経略を父ヨハンより任され[1]、しばらく別居状態が続いた[2]。1334年、カールはプラハに帰還し、当時ルクセンブルクにいたブランシュをプラハに呼び寄せた[2]。2人の間には2女が生まれた。
- マルガレーテ(1335年 - 1349年) - ハンガリー王(のちにポーランド王を兼ねた)ラヨシュ1世と結婚[3]
- カタリーナ(1342年 - 1395年) - オーストリア公ルドルフ4世と結婚[4]、のちバイエルン公およびブランデンブルク選帝侯オットー5世と再婚。
カールは1346年にドイツ対立王となり、引き続き同年にボヘミア王位を継承、さらに翌1347年には単独のローマ王となった[5]。ブランシュは1348年に死去した。
脚注
- ^ 鈴本、p. 43
- ^ a b 鈴本、p. 44
- ^ Francis Dvornik, The Slavs in European History and Civilization, (Rutgers University Press, 1962), 52.
- ^ From Famous Empresses to Unspectacular Queens, Karl-Ulrich Jaschke, Queens and Queenship in Medieval Europe, ed. Anne J. Duggan, (The Boydell Press,1997), 102.
- ^ 鈴本、p. 53 - 54
参考文献
- 鈴本達哉 『ルクセンブルク家の皇帝たち』 近代文芸社、1997年、ISBN 4773361956
固有名詞の分類
神聖ローマ皇后 |
アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン ブランシュ・ド・ヴァロワ アンナ・シフィドニツカ バルバラ・ツェリスカ |
ボヘミアの王妃 |
アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク アンナ・プシェミスロヴナ ブランシュ・ド・ヴァロワ アンナ・シフィドニツカ バルバラ・ツェリスカ |
ヴァロワ家 |
ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア マリー・ド・ベリー ブランシュ・ド・ヴァロワ ディアーヌ・ド・フランス イザベラ・オブ・ヴァロワ |
ルクセンブルクの后妃 |
マーガレット・オブ・ヨーク ブランシュ・ド・ヴァロワ エリシュカ・プシェミスロヴナ ヴァランティーヌ・ヴィスコンティ ベアトリス・ド・ブルボン |
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