ディアーヌ・ド・フランスとは? わかりやすく解説

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ディアーヌ・ド・フランス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/20 03:07 UTC 版)

ディアーヌ・ド・フランス
Diane de France
アングレーム女公
ポンチュー女伯
在位 1582年 - 1619年

出生 (1538-07-25) 1538年7月25日
フランス王国
パリ
死去 1619年1月11日 (1619-01-11) 1619年1月11日(80歳没)
フランス王国
パリ
配偶者 オラーツィオ・ファルネーゼ
  フランソワ・ド・モンモランシー
家名 ヴァロワ=アングレーム家
父親 フランスアンリ2世
母親 フィリッパ・ドゥーチ
サイン
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ディアーヌ・ド・フランスの紋章

ディアーヌ・ド・フランス(Diane de France, 1538年7月25日 - 1619年1月11日)は、フランスアンリ2世と愛妾フィリッパ・ドゥーチピエモンテ出身)の間に生まれた庶子[1][2]

生涯

ディアーヌは1538年7月25日に生まれ、このとき父王アンリ2世は遠征のため北イタリアのモンカリエーリに滞在していた[1][3][4]。正式に認知をされたのは1572年のことであった(以前に考えられていた1547年ではない)[5]。1553年2月15日にカストロ公オラーツィオ・ファルネーゼと結婚したが[6]、同年7月18日にオラーツィオがエスダン包囲戦で戦死したため未亡人となった[6][7][8]

1557年にフランソワ・ド・モンモランシー(アンヌ・ド・モンモランシーの長男)と再婚した。同年5月3日に結婚契約が結ばれ[7]、6月4日に結婚式が行われた[4][9]。フランスの穏健なカトリック派首領である夫を補佐したという。1579年にフランソワと死別する。

ディアーヌは異母弟アンリ3世に好かれており、1582年にディアーヌ1代限りのアングレーム公位を授けられた[4]。彼女はアンリ4世の代になっても宮廷で尊敬を集め、のちの王ルイ13世の教育を監督したという。ディアーヌは1619年にパリで死去した[7]

登場作品

注釈・出典

  1. ^ a b Pébay & Troquet 1990, p. 153.
  2. ^ Merrill 1935, p. 133.
  3. ^ Mariéjol 1920, p. 37.
  4. ^ a b c Pébay & Troquet 1992, p. 88.
  5. ^ Lhote 2013, p. 4.
  6. ^ a b Cooper 2007, p. 136.
  7. ^ a b c Picot 1907, p. 8, note 2.
  8. ^ Setton 1984, p. 596, note 119は没日を7月16日としている。
  9. ^ Lanza 2007, p. 29.

参考文献

先代
アンリ・ダングレーム
アングレーム女公
ポンチュー女伯
1582年 - 1619年
次代
シャルル・ド・ヴァロワ




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