アンナ・プシェミスロヴナとは? わかりやすく解説

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アンナ・プシェミスロヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/11 02:20 UTC 版)

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アンナ・プシェミスロヴナ
Anna Přemyslovna
ボヘミア王妃
在位 1306年1307年 - 1310年

出生 1290年10月15日
ボヘミアプラハ
死去 (1313-09-03) 1313年9月3日(22歳没)
ケルンテン
配偶者 ボヘミアハインリヒ・フォン・ケルンテンケルンテン公ハインリヒ6世)
家名 プシェミスル家
父親 ボヘミア王兼ポーランドヴァーツラフ2世
母親 グタ・ハブスブルスカー
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アンナ・プシェミスロヴナ(Anna Přemyslovna, 1290年10月15日 - 1313年9月3日)は、ボヘミアハインリヒ・フォン・ケルンテンケルンテン公ハインリヒ6世)の妃。ボヘミア王兼ポーランドヴァーツラフ2世の次女で、母はローマ王ルドルフ1世の娘グタ(ユッタ)

生涯

アンナは1290年に生まれた。双子の姉だったアネシュカは2歳の時に夭逝した。1306年、アンナはケルンテン公ハインリヒ6世と結婚したが、同年に兄で父の後を継いでいたヴァーツラフ3世が暗殺された。このため、王家の第1王女であるアンナの夫ハインリヒがボヘミア王およびポーランド王の称号を相続した。しかし間もなく、ボヘミアにおける事実上の権力はオーストリア公ルドルフ3世に奪われ、アンナ夫妻は敵方の追跡を振り切ってケルンテン公国へ逃亡した。ルドルフは翌1307年に急死し、ハインリヒはボヘミア王に復位することができた。

ハインリヒとアンナは次第に、アンナの未婚の妹エリシュカの存在を憂慮するようになっていった。アンナは妹を何とか結婚させようとしたが、エリシュカは姉の持ってくる見合い話を次々に断った。エリシュカは1310年、ルクセンブルク家ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子ヨハンと結婚した。この結婚と同時に、アンナとエリシュカは決別することになった。同年、アンナの夫ヨハンの軍勢が首都プラハを占領すると、アンナとハインリヒはケルンテンへの引き揚げを余儀なくされた。アンナは1313年、22歳で子供もないまま死んだ。





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