ブラック・ニュー・ジャパン、蝶天タッグ(2004年 - 2007年)
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2005年には、ヒールユニットであるブラック・ニュー・ジャパンを結成。この頃から、猪木派の強行な新日本への内部介入が表面化していった。しかし8月、G1で藤田和之を破って5度目の優勝を果たし、同年に急逝した橋本に優勝を報告した。長州力が新日本に戻ってくると反長州を掲げ抗争を開始し、2006年には新日本社長のサイモン猪木と抗争を開始する。サイモン社長の起用は歓迎と同情をしていた。その理由としては、蝶野が知らない所で社長候補として利用されていた為である。だが、同年年末の猪木、ユークス間の株式譲渡で筆頭株主に成ったユークスには否定的だった。
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