ブシャン包囲戦 (1712年)とは? わかりやすく解説

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ブシャン包囲戦 (1712年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/02 09:16 UTC 版)

ブシャン包囲戦

ブシャン要塞の模型、1715年作、リール美術館英語版所蔵。
戦争スペイン継承戦争
年月日1712年10月1日 - 10月19日
場所フランス王国ブシャン英語版
結果:フランスの勝利
交戦勢力
フランス王国 ハプスブルク帝国
ネーデルラント連邦共和国
指導者・指揮官
クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール グローフェンシュタイン少将(Grovenstein
戦力
20,000
大砲40門
2,000
大砲23門
臼砲2門
旋回砲2門
損害
死傷者400

ブシャン包囲戦(ブシャンほういせん、英語: Siege of Bouchain)はスペイン継承戦争中の1712年10月1日から10月19日にかけて行われた、クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール率いるフランス王国軍2万によるブシャン英語版の包囲。

ヴィラールは同盟軍の伸び切った連絡線という弱点を利用して、1712年7月のドゥナの戦いオランダオーストリアの同盟軍を撃破、その後の3か月間でマルシエンヌ英語版ドゥーエール・ケスノワ英語版を次々と落とした。フランス軍の指揮は高まり、ル・ケスノワが降伏する前の10月1日にブシャンの包囲を開始した(ル・ケスノワの包囲は10月4日に終結)。グローフェンシュタイン少将率いるブシャン駐留軍2千は18日間耐えたのち10月19日に降伏した。フランス軍の損害はわずか400人だった。ヴィラールの勝利により、1年前のブシャン包囲戦におけるマールバラ公爵の勝利は無に帰し、セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンが築いた北フランスの要塞がユトレヒト条約でフランス領に留まる結果となった[1]

脚注

  1. ^ Bodart 1908, p. 169.

参考文献

  • Bodart, G. (1908). Militär-historisches Kriegs-Lexikon (1618-1905). Vienna: C.W. Stern. 



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