ハリー・ベニンホフとは? わかりやすく解説

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ハリー・ベニンホフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/27 13:59 UTC 版)

ハリー・ベクスター・ベニンホフ
生誕 1874年4月8日
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州タイタスビル英語版
死没 (1949-04-24) 1949年4月24日(75歳没)
アメリカ合衆国 インディアナ州ジョンソン郡フランクリン英語版
出身校 シカゴ大学
職業 宣教師教育者
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ハリー・ベクスター・ベニンホフ英語: Harry Baxter Benninghoff, 1874年4月8日 - 1949年4月24日)は、米国バプテスト教会のアメリカ人宣教師、教育者。早稲田奉仕園の創設者で、早稲田大学の講師を長らく務めた[1][2]東京女子大学初代理事長も務めた[3]

人物・経歴

1874年4月8日、米国ペンシルベニア州タイタスビルで生まれる[4]

米国北部バブテストの宣教師としてビルマ(現・ミャンマー)へ伝道を行った後、シカゴ大学に学び、1907年(明治40年)卒業と同時に日本に派遣される[2]

ベニンホフは、1908年(明治41年)に早稲田大学の学生に請われて英語による聖書研究会『3Lクラブ』[5]を東京・築地にあった自宅で始めた[1][2]。 同年早稲田大学の創設者大隈重信に要請され、キリスト教に基く学生寮『友愛学舎』を早稲田鶴巻町に創設、奉仕園の礎となる活動が開始された[6]。その後牛込弁天町に場所を移し、更に1920年(大正9年)現在の土地を購入して、友愛学舎のほか、スコットホール、スポーツ施設などを備えた学生センター『早稲田奉仕園』をつくる[1][2]。1917年(大正6年)には、東京女子大学の初代理事長にも就任した[2][3]

長らく早稲田大学の講師も務め、また、日米間の相互理解と親善に努力するが、日米関係の悪化により1941年(昭和16年)志半ばにして帰国。再び日本に戻ることを願いながら、1949年(昭和24年)4月24日インディアナ州フランクリン英語版で死去した[4][1][2]

1963年(昭和38年)に早稲田奉仕園内に関係者の寄附により銅像が建てられた[1]

脚注

関連項目




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