ハイチ帝国 (1804年-1806年)とは? わかりやすく解説

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ハイチ帝国 (1804年-1806年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/06 01:35 UTC 版)

ハイチ帝国
Empire d'Haïti  (フランス語)
Anpi an Ayiti  (ハイチ・クレオール語)
1804年 - 1806年
国旗
国の標語: La liberté ou la mort(フランス語)
自由か死か

ハイチ帝国の地図
公用語 ハイチ語フランス語
首都 ポルトープランス
皇帝
1804年 - 1806年 ジャン=ジャック・デサリーヌ(ジャック1世)
変遷
独立 1804年1月1日
帝政樹立 1804年9月22日
皇帝暗殺 1806年10月17日
現在 ハイチ

ハイチ帝国(ハイチていこく、フランス語: Empire d'Haïti)は、1804年に独立したハイチが、皇帝としてジャン=ジャック・デサリーヌ(ジャック1世)を戴くことで成立した国家である。

概要

フランス植民地だったサン=ドマングは、激しい独立戦争の末に独立を達成した。1803年11月30日からサン=ドマングの総督となっていた独立戦争の英雄ジャン=ジャック・デサリーヌは、1804年1月1日ゴナイーヴにて、公式にサン=ドマングの独立を宣言し、国名を「ハイチ」に改めた。また、自身は終身総督の地位に就いた。さらに、同年9月22日、デサリーヌはフランス帝国皇帝のナポレオン1世に倣って皇帝として即位し、ジャック1世を称した。1805年5月20日には帝国憲法が公布され、ジャック1世は後継者指名権を獲得した。

権力掌握後のジャック1世は植民地支配の報復として白人を大量に殺害し、白人の持つ資産・土地を没収した。しかし、そんな皇帝の統治に不満を持つ北部の実力者アンリ・クリストフと南部の実力者アレクサンドル・ペションらの策謀により、1806年10月17日、ジャック1世は反乱鎮圧に向かう途上のポン=ラルナージュ(現在のポン=ルージュ)で暗殺された。

ジャック1世の死後、ハイチの国土は北部のハイチ国と南部のハイチ共和国に分裂した。

関連項目




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