ドリュゼナイムとは? わかりやすく解説

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ドリュゼナイム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 09:24 UTC 版)

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Drusenheim


行政
フランス
地域圏 (Région) グラン・テスト地域圏
(département) バ=ラン県
(arrondissement) アグノー郡
小郡 (canton) ビシュヴィレール小郡
INSEEコード 67106
郵便番号 67410
市長任期 ジャッキー・ケレール
2008年-2014年
自治体間連合 (fr) C.C. de l'Espace Rhénan
人口動態
人口 4 990人
2009年
人口密度 317人/km2
住民の呼称 Drusenheimois (es)
地理
座標 北緯48度45分46秒 東経7度57分09秒 / 北緯48.76277778度 東経7.9525度 / 48.76277778; 7.9525座標: 北緯48度45分46秒 東経7度57分09秒 / 北緯48.76277778度 東経7.9525度 / 48.76277778; 7.9525
標高 平均:? m
最低:119 m
最高:128 m
面積 16.73km2 (1 573ha)
Drusenheim
公式サイト www.drusenheim.fr
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ドリュゼナイムDrusenheim)は、フランスグラン・テスト地域圏バ=ラン県コミューン

地理

ストラスブールローターブール間の鉄道路線沿い、ライン川沿いにある小さなまちである。

ドリュゼナイムはフェリーでライン川対岸のドイツのまちグレフェルンと往来ができる。

歴史

現在のドリュゼナイムのまちの位置は、ローマ時代に大ドルススが築かせた砦のあったところである。今日の地名は大ドルスス(Drusus)からきている。1570年からドリュゼナイムはハーナウ・リヒテンベルク家の支配下に入った。三十年戦争によってほぼ住民がいなくなり、フランスに併合後、ロレーヌ人、スイス人、ドイツ人が新たに定住した。ドリュゼナイムの砦は、1705年に指揮を取った軍の建築技師ジャン・マクシミリアン・ヴェルシュの手によって強化された[1]

第二次世界大戦が始まると、アルザスの多くのまちがそうであったように、ドリュゼナイム住民は戦禍を避けるためリムーザンサン=レオナール=ド=ノブラへ避難した。フランスがドイツに降伏すると、住民の帰還が進められた。1942年にはドリュゼナイムの男性住民がドイツ国防軍への配属を強制された。1944年12月にはアメリカ陸軍がドリュゼナイムに達し、ノルトヴィント作戦でドイツ軍と交戦した。しかしドイツ軍が反撃に転じ2ヶ月あまりまちを占領しているあいだに、まちはほぼ破壊され尽くした。

人口統計

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年
2907 3335 3827 4309 4363 4723 5046[2]

参照元:Ehess[3]INSEE[4]

出身者

  • ロラン・ヴァーグナー - 元サッカー選手

脚注




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