ドミトリー・シェミャーカとの戦い
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「ヴァシーリー2世」の記事における「ドミトリー・シェミャーカとの戦い」の解説
ヴァシーリー2世はコソイを追放した。これにコソイの弟・ドミトリー・シェミャーカと抗争した。だが1445年にノヴゴロドを占領していたカザン・ハン国のウルグ・ムハンマド(大ムハンマド)によってヴァシーリー2世は捕らえられた(スーズダリの戦い)。釈放の条件として莫大な身代金(20万銀ルーブリ)を要求され、要求どおり支払う。そのため釈放された上にムハンマドから援軍を与えられ、シェミャーカとの抗争にひとまず勝利した。 ところがタタールの援助を得たことと過酷な身代金要求はボヤール(大貴族)らより多くの不満を招き、ヴァシーリー2世は孤立する。シェミャーカはこれに乗じて勢力を回復してモスクワを奪ってヴァシーリー2世を捕らえて目を潰し、ウグリチに幽閉した。 だが貴族らはシェミャーカの政策に反発し、幽閉されていたヴァシーリー2世を助け出した。ヴァシーリー2世はトヴェリに逃れて再起を果たし、モスクワを奪還した。1450年にはシェミャーカの本拠であったガーリチを陥落させ、1453年にはシェミャーカを毒殺して抗争に勝利した。
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