デルタ_(船)とは? わかりやすく解説

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デルタ (船)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/03 01:15 UTC 版)

デルタ (Delta) はP&O社の鉄製外輪船[1]イギリスで建造・運用後に日本政府が購入し、三菱汽船(現・日本郵船)に委託(のちに払い下げ)されて運用され、さらにアメリカ合衆国に売却された。

来歴

1859年[1][2]テムズ鉄工造船所で建造[3]。1618総トン[2]アレクサンドリア航路の定期船で、1859年10月12日に処女航海に出発した[1]

1869年11月17日、スエズ運河開通式に参加[1]。招かれた船はポートサイドから運河を通ってスエズまでパレードしたが、「デルタ」は途中までしか参加しなかった[1]

台湾出兵時の軍事輸送に用いるために日本政府は1874年5月から1875年3月にかけて「デルタ」を含め13隻の船を購入した[4]。「デルタ」は1874年に購入され、「高砂丸」(2121総トン)となった[4]

購入された13隻の船は三菱汽船会社に委託され、1875年1月に上海航路開設が命じられると三菱は「高砂丸」他3隻を就航させた[5]。2月21日に「高砂丸」は上海へ向かった[1]。このころ、「高砂丸」はスクリュー船に改装されている[1]。9月、13隻は三菱に払い下げられた[6]。また同月、三菱汽船会社は郵便汽船三菱会社と改称された[7]。1885年に郵便汽船三菱会社は共同運輸と合併して日本郵船となり、「高砂丸」も日本郵船に継承された[8]

日清戦争では陸軍に徴傭された(1894年6月12日徴傭、1895年12月16日解傭)[9]

1898年1月28日、アメリカに売却され「センテニアル (Centennial)」と改名[10]

日露戦争時、ウラジオストクへの密輸船となり、1905年10月13日に宗谷海峡日本海軍に拿捕されたが、ポーツマス条約調印後に拿捕された船は解放ということになった[11]。「センテニアル」は解放されてメリカへ戻る途中、行方不明となった[3]。1913年に樺太北方の氷海でロシア人により発見されたが、乗組員の痕跡はなく、船体は放棄された[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 山田廸生「名船発掘 高砂丸」
  2. ^ a b Boyd Cable, A hundred Year History of the P. & O.. p. 245
  3. ^ a b c 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』40ページ
  4. ^ a b 『七十年史』7ページ。山田廸生「名船発掘 高砂丸」
  5. ^ 『七十年史』8ページ
  6. ^ 山田廸生「名船発掘 東京丸」
  7. ^ 『七十年史』10ページ
  8. ^ 『七十年史』23、676ページ
  9. ^ 『日本郵船株式會社五十年史』127ページ。なお、この時の総トン数は2075.24トンとなっている。
  10. ^ 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』40ページ。山田廸生「名船発掘 高砂丸」
  11. ^ 遠藤源六『日露戰役國際法論』280-281ページ。山田廸生「名船発掘 高砂丸」

参考文献




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