テオドール・クルチウスとは? わかりやすく解説

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テオドール・クルチウス

(テーオドール・クルツィウス から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 17:46 UTC 版)

テオドール・クルチウス
1880年頃
生誕 Julius Wilhelm Theodor Curtius
(1857-05-27) 1857年5月27日
ドイツ連邦 デュースブルク
死没 1928年2月8日(1928-02-08)(70歳)
ワイマール共和国 ハイデルベルク
国籍 ドイツ
研究機関 ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク
博士課程
指導教員
ヘルマン・コルベ
プロジェクト:人物伝
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Geheimratテオドール・クルチウス(Julius Wilhelm Theodor Curtius、1857年5月27日 - 1928年2月8日)は、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク等の化学の教授である。

1890年/1894年にクルチウス転位の論文を出し、ジアゾ酢酸、ヒドラジンアジ化水素等を発見した。

歴史

ハイデルベルクにある墓

ドイツデュースブルクで生まれ、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルクロベルト・ブンゼンライプツィヒ大学ヘルマン・コルベに師事して化学を学んだ。1882年にライプツィヒ大学で博士号を授与された。

1884年から1886年まで、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンアドルフ・フォン・バイヤーの下で研究を行った後、1889年にフリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク分析化学研究室を率いた。その後、クリスティアン・アルブレヒト大学キールの化学部門長となり、そこで論文を量産した。これとともに、1895年には宮中顧問官(枢密院)に指名された。1897年にライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンで著名なアウグスト・ケクレの後任を1年間勤めた後、1898年にルプレヒト・カール大学ハイデルベルクのヴィクトル・マイヤーの後任で化学の教授となり、引退する1926年まで勤めた。後任は、1962年にクルチウスの伝記を書いたカール・フロイデンベルクであった[1]

1928年2月8日にハイデルベルクで死去した。

私生活

自由な時間には、作曲を行ったりコンサートで歌を歌い、山にも登った。1894年には、ドイツ・オーストリア登山家協会のキール支部を設立し、私財から支援を行った。ミュンヘン在住時代には、山岳ガイドのw:Christian Kluckerと親友になり、その後、何年も一緒に山に登った。

主な論文

クルチウスは、300報以上の論文を執筆し、そのうちのいくつかは、化学の発展に大きなインパクトを与えた。

家系

クルチウス家はブレーメン地方の出で、何人か著名な人物がいる。

出典

  1. ^ Karl Freudenberg (1963). “Obituary: Theodor Curtius. 1857-1928”. Chemische Berichte 96 (4): I-XXV. doi:10.1002/cber.19630960434. 

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