ダーンリー卿の死、ボスウェル伯との再婚と廃位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:04 UTC 版)
「メアリー (スコットランド女王)」の記事における「ダーンリー卿の死、ボスウェル伯との再婚と廃位」の解説
その後、メアリーはボスウェル伯に心を寄せるようになった。1567年2月10日、エディンバラのカーク・オ・フィールド教会(現在のエディンバラ大学構内)でダーンリー卿が殺害されているのが発見された。 ボスウェル伯はメアリーに結婚を申し込み、その数日後ダンバー城(英語版)にメアリーを連行し、結婚に踏み切らせ、5月15日に2人は結婚式を挙げた。当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られており(実際の証拠はなかったが)、カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対した。 間もなく、第4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスら反ボスウェル派の貴族たちが軍を起こした。6月15日にメアリーはエディンバラの東のカーバリー・ヒルで反乱軍に投降した。メアリーはロッホ・リーヴン城(英語版)に移され、7月24日に廃位された。
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