スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 15:21 UTC 版)
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(スロベニアじん・クロアチアじん・セルビアじんこく、セルビア語:Држава Словенаца, Хрвата и Срба / Država Slovenaca, Hrvata i Srba、クロアチア語:Država Slovenaca, Hrvata i Srba(国際音声記号は[dr̩ˈʒaʋa sloˈʋenaʦa xr̩ˈʋataɪ ˈsr̩ba])、スロベニア語:Država Slovencev, Hrvatov in Srbov)は、 第一次世界大戦末期の1918年10月29日、オーストリア=ハンガリー帝国内の南スラヴ人(ここではスロベニア人、クロアチア人、セルビア人)居住地域の統一国家として創設された。その点、同じく帝国からの独立を果たしたチェコスロヴァキアやポーランドなどと並ぶ「継承国家」の一つである。ただし他国とは異なって、民族自決の原則を行使する政治主体として、連合国からの承認は最後まで得ることができなかった。しかし他方では、同年12月1日にセルビア王国、モンテネグロ王国との対等な統合が実現し、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(のちユーゴスラビア王国と改称)が誕生した。したがって約一か月という短命ではあるが、「南スラヴ人の国民国家」を標榜するユーゴスラビアの成立に不可欠な構成国の一つとして大きな役割を果たした。
注釈
- ^ なおクロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナは、同じハプスブルク君主国ではあるがハンガリー王国に属したため、ウィーンの帝国議会には議席を有しない。
- ^ 柴(2021)の訳語による。なお材木(2003)では「国民評議会」。
- ^ 材木(2003)では「総会」としているが、柴宜弘は「重要な会議」とだけ表記している。
出典
- ^ 柴(2020)p.4
- ^ 柴(2021)p.132
- ^ 柴(2021)p.50
- ^ a b 柴(2021)pp. 54-56
- ^ Trifunovska(1994)p.140
- ^ 柴(2021)pp. 50-51
- ^ 柴(2020)p.5
- ^ 柴(2021)pp. 51-52
- ^ Banac(1984) p.127
- ^ 材木(2003)p.9
- ^ 材木(2003)p.10、柴(2020a)p.7
- ^ 材木(2003)p.10
- ^ 材木(2003)p.11
- ^ Goldstein (2001) p.112
- ^ a b 柴(2021)p.57
- ^ a b c 柴(2020)p.8
- ^ 材木(2003)pp. 15-16
- ^ 材木(2003)p.16
- ^ a b 柴(2020)p.9
- ^ 材木(2003)p.18
- ^ Goldstein (2001) p. 111
- ^ 柴(2021)p.58
- ^ 材木(2003)pp.26-28
- ^ a b 柴(2021)p.59
- 1 スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国とは
- 2 スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の概要
- 3 領域
- 4 建国から消滅まで
- 5 周辺地域の動向
Weblioに収録されているすべての辞書からスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国 を検索
- スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国のページへのリンク