ステファン・タタウとは? わかりやすく解説

ステファン・タタウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/14 01:04 UTC 版)

ステファン・タタウ
名前
本名 Stephen Tataw Eta
ステファン・タタウ・エタ
ラテン文字 Stephen Tataw
基本情報
国籍 カメルーン
生年月日 (1963-03-31) 1963年3月31日
出身地 ヤウンデ
没年月日 (2020-07-31) 2020年7月31日(57歳没)
身長 175cm
体重 67kg
選手情報
ポジション DF (右SB / CB)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988-1991 トネール・ヤウンデ
1992-1994 オリンピック・ムボリエフランス語版
1995-1996 鳥栖フューチャーズ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ステファン・タタウ・エタStephen Tataw Eta, 1963年3月31日 - 2020年7月31日)は、カメルーンヤウンデ出身の元同国代表の元サッカー選手

経歴

カメルーン代表のサイドバックとして1990 FIFAワールドカップ, 1994 FIFAワールドカップと2度のFIFAワールドカップに主将として出場。前者では、グループリーグ初戦でディエゴ・マラドーナ擁する前回大会王者のアルゼンチン戦で2人の退場を出しながらも勝利する番狂わせをおこした[1]。準々決勝のイングランド戦で散るも、タタウは全試合に出場しアフリカのチームとして初めてベスト8進出の快挙に貢献したが、後者ではグループリーグ最下位に終わった。

翌1995年に訪日し、鳥栖フューチャーズに加入したが、2年間の在籍でJリーグ昇格を果たすことは出来なかった。フューチャーズの消滅に伴って設立したサガン鳥栖に残留を希望したが結局残留することなく日本を去り、そのまま引退した。

2020年7月31日、ヤウンデの自宅で亡くなったことをBBCなどが報じた[2]。享年57。

エピソード

1990 FIFAワールドカップ開幕前に初戦のアルゼンチン戦でゴールマウスを守ると見られていたジョセフ=アントワーヌ・ベルがチーム状態に苦言を呈したことで数人の選手と緊張関係が生じ、それがきっかけとなりトーマス・ヌコノが正GKを務めることになったことやロジェ・ミラの突然のメンバー入りと多くの混乱があったことを後年明かした[3]。また、試合中にアンドレ・カナ=ビイク, バンジャマン・マッシン英語版が退場になり9人となりながらも勝利した要因の1つにポール・ビヤ大統領が観戦していたことを挙げた[3]

2017年までカメルーン代表監督を務めたウーゴ・ブロース英語版の後任候補として挙げられた77人の1人に名を連ねていた[4]

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 51試合 3得点(1987年-1994年)[5]


カメルーン代表国際Aマッチ
出場得点
1987 8 2
1988 7 0
1989 7 0
1990 10 0
1991 3 0
1992 5 0
1993 6 0
1994 5 1
通算 51 3

タイトル

代表
個人

脚注

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ステファン・タタウ」の関連用語

ステファン・タタウのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ステファン・タタウのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのステファン・タタウ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS