ジョゼフ・デュクルーとは? わかりやすく解説

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ジョゼフ・デュクルー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 05:01 UTC 版)

ジョゼフ・デュクルー
Joseph Ducreux
Portrait de l'artiste sous les traits d'un moqueur, Self-portrait, ca. 1793
生誕 Joseph Ducreux
(1735-06-26) 1735年6月26日
フランス王国ナンシー
死没 1802年7月24日(1802-07-24)(67歳没)
フランス共和国、パリからサン=ドニへの道中
著名な実績 肖像画家
受賞 premier peintre de la reine
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ジョゼフ・デュクルー(Joseph Ducreux, 1735年6月26日 - 1802年7月24日)は、フランス貴族、肖像画家パステル画家細密画家エングレーバーで、フランス王ルイ16世の宮廷肖像画家として、そしてフランス革命後も成功を収めた人物である。男爵に叙され、premier peintre de la reine(女王付の第一画家)に就任し、処刑前のルイ16世最後の肖像画も描いている[1]

略歴

ムルト=エ=モゼル県ナンシーで生まれた。画家の父親から、絵画を学んだ後、1760年のパリに出て、肖像画家のモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールの弟子になった。ジャン=バティスト・グルーズからも油絵の技法を学んだ。

1769年にフランス王太子と婚約したマリー・アントワネットの肖像画を描くためにウィーンに派遣され、この功績でデュクルーは宮廷画家になり爵位を得た。フランス革命が始まるとロンドンに移りロンドンで処刑前のルイ16世最後の肖像画を描いた。

ジャコバン党員として、革命にかかわった画家のジャック=ルイ・ダヴィッドの援助で、1793年にパリに帰還でき、 公的な画家の仕事を続けることができるようになり、パリのデュクルーの邸は多くの芸術家が集まる場所になった。フランス第一共和政下の1802年に亡くなった。

娘のローズ=アデライード・デュクルー(1761-1802)や息子のジュール・デュクルー(Alexandre-Jules Ducreux: 1772-1799)やレオン・デュクルー(Antonine-Léon Ducreux 1777-1799)も画家になった[2]

インターネットミーム

自画像、あくび中(ca. 1783)

デュクルーの自画像は、ラップポップソング、インターネットフレーズなどと組み合され、インターネット・ミームとしてネット上で面白おかしく加工されている[3]


ギャラリー

出典

  1. ^ Louis XVI” (French). 2010年11月27日閲覧。
  2. ^ Bellier de La Chavignerie 1865, p. 74
  3. ^ Klee, Miles. “Vanishing Point (Your Memes Reviewed): The Joseph Ducreux Self-Portrait”. 2011年5月15日閲覧。

外部リンク




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