ジョスラン1世_(エデッサ伯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジョスラン1世_(エデッサ伯)の意味・解説 

ジョスラン1世 (エデッサ伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/09 07:40 UTC 版)

ジョスラン1世

在位期間
1118年 - 1131年
先代 ボードゥアン・ド・ブルク
次代 ジョスラン2世英語版

ガリラヤ公英語版
在位期間
1112年 - 1119年
先代 タンクレード
次代 ギヨーム1世・ド・ビュール英語版

出生 1070年/1075年
死亡 1131年
カイスン砦英語版
(現在のトルコアドゥヤマン県チャクルフユック英語版)
王室 クルトネー家
父親 クルトネー領主ジョスラン1世英語版
母親 エリザベト・ド・モンレリ
配偶者 ベアトリスアルメニア語版
マリア・ディ・サレルノ
子女
ジョスラン2世英語版
テンプレートを表示

ジョスラン・ド・クルトネー(またはジョスラン1世フランス語: Josselin Ier d'Édesse1131年没)とは、11世紀から12世紀にかけて第1回十字軍で活躍したエデッサ伯(在位:1119年 - 1131年)である。エデッサ伯国の最盛期を築き上げた伯爵として知られ、1115年から1131年にかけてガラリヤ公英語版テル・バシール英語版領主も兼任した。ジョスランはムスリムとの戦の際に2度ほど捕虜として収監されたものの、敗退をものともせずにイスラム諸侯と戦い続け、伯国の領土拡張に務めた。1131年にアレッポ北東部のムスリム側の砦を包囲中に崩落事故に巻き込まれて重傷を負い、その傷が原因で亡くなった。

生涯

1101年の十字軍参加と勢力拡大

ジョスランはクルトネー領主ジョスラン1世英語版モンスレー領主ギー1世英語版の娘エリザベトとの間に生まれた[1]。1101年にジョスランは十字軍遠征に参加し、従兄弟のボードゥアン・ド・ルテル伯傘下の指揮官の1人英語版として従軍した。遠征後、ジョスランは褒賞としてテル・バシール英語版領主に任命された[2]。その後彼は、ブロワ伯エティエンヌ2世の傘下に入り、エティエンヌ伯配下の諸侯の1人英語版として戦役に参加した。しかし1104年、ハッラーンの戦いセルジューク朝に敗れてムスリム軍の捕虜となってしまった[3]。ジョスランの身柄はムスリムのマルディン領主イルガジ英語版の手に渡り、1107年に20,000ディナールの身代金と引き換えに解放された[4]

1113年より、ジョスランは自領の拡大に努め、テル・バシールを中心としてユーフラテス川西岸地域に勢力を拡大した。一方ユーフラテス川東岸地域やエデッサそのものはボードゥアン・ド・ルテル自身が統治していたが、この地域は絶えずセルジューク朝の攻撃に苛まされていた。そして同年、ジョスランはガラリヤ公英語版の爵位授与のためにエルサレムに向かったが[5]、その隙を狙ってボードゥアンはジョスランからテル・バシール領を収公した[6]

エデッサ伯時代

1118年、エルサレム国王ボードゥアン1世が亡くなり、ボードゥアン・ド・ルテルがボードゥアン2世としてエルサレム王に即位した。この際、ボードゥアン1世の遺言に基づいてエルサレム王即位を目指していたボードゥアン1世の兄ブローニュ伯ウスタシュ3世とボードゥアン2世が対立した。テル・バシール領を巡ってボードゥアン2世に反発していたジョスランであったが、この時彼はボードゥアン2世の即位を支持したという[7]。ボードゥアン2世はジョスランの支持に応え、褒賞としてエデッサ伯国を彼に与えた[8]。これにより、ジョスランはジョスラン1世としてエデッサ伯に就任した。

1122年、エデッサ伯ジョスラン1世とビレジク領主ヴァレランはシュリュジュ英語版近郊にてテュルク人諸侯ベレク・ガーズィー英語版に捕虜として捕えられた[9]。その後、カルプトに送還され、1123年4月に同様に捕えられていたボードゥアン2世とともに捕虜生活を送った[10]。その後彼らは50人のアルメニア人によって救出された。このアルメニア人たちは商人に偽装して、ボードゥアンやジョスランが監禁されていた砦に潜入し、衛兵を殺害して彼らを救ったのであった[11]。しかしその後すぐ、彼らが囚われていた砦はアルトゥク朝の大軍に包囲され、ジョスランはアルトゥク軍に支援を求めた[11]。ボードゥアンはその後も砦に残ったものの、その後しばらくの間にアルトゥク軍に救出された[10]

その後エデッサに帰還したジョスラン1世は、伯領を拡大させ、1125年にはモースルのムスリム領主en: Aqsunqur al-Bursuqi)と十字軍との戦争に参加し、アザーズでムスリム軍を撃破英語版した[12]

1131年、ジョスランはアレッポ北東部の小規模なムスリムの砦を包囲していたが、包囲戦の最中に自軍の工兵が崩落事故を起こし、それに巻き込まれてジョスランは重傷を負った[13]。この事故ののち、ジョスランはダニシュメンド朝領主ガーズィー・グムシュテギン英語版率いるムスリム軍が十字軍のカイスン砦を包囲したという報告を受けた[12]。ジョスラン1世の息子ジョスラン2世英語版はガーズィーに対する攻撃を拒否したため、ジョスラン1世は重症の体を押してカイスン砦に向かって進軍を開始した[12]。ジョスラン1世は担架に乗って進軍した。ジョスラン1世がカイスンに進軍しているとの報を受けたガーズィーは包囲を解き撤退した[12]。ジョスラン1世は生涯で最後の戦いで勝利を挙げたのち、程なくして亡くなった[12]

結婚と子女

ジョスランはアルメニア人貴族ベアトリスと結婚した[14]。ベアトリスはアルメニア公コンスタンディン1世英語版の娘であった[15]。ベアトリスは1119年に亡くなったが、ジョスランとベアトリスとの間には以下の子供を儲けた。

1122年、ジョスランはマリアと再婚した。マリアはリッカルド・ディ・サレルノ英語版の娘であり、またアンティオキア公国摂政ルッジェーロ・ディ・サレルノ英語版の姉妹であった[16]

脚注

  1. ^ a b La Monte 1942, p. 100-101.
  2. ^ Runciman 1951, p. 37-38.
  3. ^ Fink 1969, p. 389.
  4. ^ Runciman 1951, p. 111.
  5. ^ MacEvitt 2008, p. 153.
  6. ^ Runciman 1951, p. 124.
  7. ^ Runciman 1951, p. 143.
  8. ^ Runciman 1951, p. 144.
  9. ^ Nicholson 1969, p. 418.
  10. ^ a b Nicholson 1969, p. 419.
  11. ^ a b Runciman 1951, p. 163.
  12. ^ a b c d e MacEvitt 2019, p. 682.
  13. ^ Elisseeff 1991, p. 380.
  14. ^ Runciman 1951, p. 190.
  15. ^ Morton 2020, p. 86.
  16. ^ Runciman 1951, p. 126.

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ジョスラン1世_(エデッサ伯)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジョスラン1世_(エデッサ伯)」の関連用語

ジョスラン1世_(エデッサ伯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジョスラン1世_(エデッサ伯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジョスラン1世 (エデッサ伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS