ジェームズ・カーネギー (第3代準男爵)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジェームズ・カーネギー (第3代準男爵)の意味・解説 

ジェームズ・カーネギー (第3代準男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/20 01:49 UTC 版)

第3代準男爵サージェームズ・カーネギー英語: Sir James Carnegie, 3rd Baronet1715年1765年4月30日)は、グレートブリテン王国の政治家。1741年から1765年まで庶民院議員を務め、1716年に没収されていたサウセスク伯爵家の領地を1764年2月に買い戻した[1]

生涯

第2代準男爵サー・ジョン・カーネギーと妻メアリー(Mary、旧姓バーネット(Burnett)、1754年6月5日没、第3代準男爵サー・トマス・バーネット英語版の次女)の長男として[2]、1715年に生まれた[3]。1729年4月3日に父が死去すると、準男爵位を継承した[2]。1730年2月10日に遠戚の第5代サウセスク伯爵ジェームズ・カーネギーが死去すると[4]、サウセスク伯爵家の男子継承者(heir male)になったが[5]、5代伯爵が1715年ジャコバイト蜂起に参加して私権剥奪されていたため[4]、伯爵位は継承できなかった[6]。カーネギーの母メアリーはカーネギーをジャコバイトとして育てようとしたが、カーネギーの保護者であるミルトン卿アンドルー・フレッチャー英語版と第5代準男爵サー・アレクサンダー・ラムゼイはメアリーに抵抗して、1730年にカーネギーをグラスゴー大学に送り、校長英語版ニール・キャンベル英語版にカーネギーの教育を監督させた[5]

1737年12月にジョン・ミドルトン英語版の歩兵連隊で空きが生じたとき、入隊の意向を示したが失敗に終わり[3]、1739年にミドルトンが死去してアバディーン・バラ選挙区英語版で補欠選挙が行われると[7]、出馬の意向を示したがこれも失敗に終わっている[3]1741年イギリス総選挙ウォルポールホイッグ党員としてキンカーディンシャー選挙区英語版から出馬[3]、無投票で当選した[8]。議会ではウォルポール内閣期もウォルポール内閣崩壊後も政府を支持し、第3代アーガイル公爵アーチボルド・キャンベルと第4代ツィードデール侯爵ジョン・ヘイ(アーガイル公爵の政敵)の2人と友好な関係を維持した[3]

1744年6月に大尉として第21歩兵連隊英語版に入隊[3]、1745年のフォントノワの戦いに参戦した後、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスが本国に召還されるとカンバーランド公とともにスコットランドに戻り、1746年のカロデンの戦いに参戦した[5]。その後は再度大陸ヨーロッパに渡り、1748年にオランダから帰国した[3]。1746年4月から1765年に死去するまでキンカーディンシャー統監英語版を務めた[3]

1747年イギリス総選挙1754年イギリス総選挙でも再選したが[8][9]、それまで常に政府を支持したのに対し、1755年に陸軍から引退した後は特定の会派に与していると見られることを避けた[1]。ただし、七年戦争の予備講和条約をめぐる1762年12月の採決ではビュート伯爵内閣側に立って投票した[1]

1748年に租借という形でサウセスク伯爵家領だったキナード英語版を取り戻し、1764年2月にはヨーク建設会社(York Buildings Company)からサウセスク伯爵家領の大半を36,870ポンド14シリング2ペンスで買い戻した[10]。ヨーク建設会社は1716年に51,540ポンドでサウセスク伯爵家領を購入していたが、1764年の競売では競争者が少なかったためカーネギーが安価で買い戻すことに成功した[11]

1765年4月30日、スコットランドに戻る道中のスタンフォード英語版卒中を起こして死去[1]、同地で埋葬された[11]。長男デイヴィッドが準男爵位を継承した[11]

家族

1752年7月5日、クリスチャン・ドイグ(Christian Doig、1820年11月4日没、デイヴィッド・ドイグの長女)と結婚、4男2女をもうけた[12]

  • デイヴィッド(1753年11月22日 – 1805年5月25日) - 第4代準男爵[13]
  • ジェームズ(1756年3月5日 – 1766年ごろ) - 10歳で没[11]
  • ジョン(1757年8月13日 – 1823年) - 陸軍中佐。1791年10月、キャサリン・タイヤマン(Catherine Tireman、1751年ごろ – 1824年、12月25日)と結婚、1男をもうけた[12]
  • ジョージ(1759年1月2日 – 1786年5月19日) - スコットランドの上級弁護士(advocate)、生涯未婚[14]
  • メアリー(1760年8月21日 – 1828年2月8日) - 生涯未婚[14]
  • エリザベス(1763年 – 1836年7月25日) - 生涯未婚[14]

出典

  1. ^ a b c d Haden-Guest 1964a.
  2. ^ a b Paul 1911, p. 81.
  3. ^ a b c d e f g h Haden-Guest 1970.
  4. ^ a b Paul 1911, p. 73.
  5. ^ a b c Paul 1911, p. 84.
  6. ^ Paul 1911, p. 83.
  7. ^ Cruickshanks, Eveline (1970). "Aberdeen Burghs". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年2月13日閲覧
  8. ^ a b Simpson 1970.
  9. ^ Haden-Guest 1964b.
  10. ^ Paul 1911, pp. 84–85.
  11. ^ a b c d Paul 1911, p. 85.
  12. ^ a b Paul 1911, pp. 85–86.
  13. ^ Fisher, David R. (1986). "CARNEGIE, Sir David, 4th Bt. (1753-1805), of Kinnaird Castle, Southesk, Angus.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年2月13日閲覧
  14. ^ a b c Paul 1911, p. 86.

参考文献

グレートブリテン議会英語版
先代
ジョン・ファルコナー英語版
庶民院議員(キンカーディンシャー選挙区英語版選出)
1741年 – 1765年
次代
サー・アレクサンダー・ラムゼイ=アーヴィン準男爵
スコットランドの準男爵
先代
ジョン・カーネギー
(ピッタローの)準男爵
1729年 – 1765年
次代
デイヴィッド・カーネギー
請求称号
先代
ジェームズ・カーネギー
— 名目上 —
サウセスク伯爵
1730年 – 1765年
次代
デイヴィッド・カーネギー



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ジェームズ・カーネギー (第3代準男爵)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジェームズ・カーネギー (第3代準男爵)」の関連用語

ジェームズ・カーネギー (第3代準男爵)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジェームズ・カーネギー (第3代準男爵)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジェームズ・カーネギー (第3代準男爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS