シュテュルクとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 外国人名の読み方 > シュテュルクの意味・解説 

シュテュルク

名前 Stürgkh

カール・フォン・シュテュルク

(シュテュルク から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/14 13:22 UTC 版)

カール・フォン・シュテュルク
Karl Graf von Stürgkh
カール・フォン・シュテュルク
生年月日 (1859-10-30) 1859年10月30日
出生地 オーストリア帝国グラーツ
没年月日 (1916-10-21) 1916年10月21日(56歳没)
死没地 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン

在任期間 1911年11月3日 - 1916年10月21日
皇帝 フランツ・ヨーゼフ1世
テンプレートを表示

カール・フォン・シュテュルクドイツ語: Karl Graf von Stürgkh1859年10月30日 - 1916年10月21日)は、オーストリアオーストリア=ハンガリー二重帝国)の貴族・伯爵・政治家。第一次世界大戦開戦時の首相を務め、在任中に暗殺された。

経歴

グラーツに生まれる。1891年帝国議会議員となり、1909年から1911年まで教育相を務める。

1911年11月3日、首相(二重帝国のオーストリア側首相)に任命され、1900年1904年に長期安定政権を実現したエルネスト・ケルバーの政策を継承し、ケルバー政権のもとで進んだ経済成長の成果を利用し、公共事業の配分により諸党派を操作して政治的安定を実現した。しかし1914年8月、第一次世界大戦が勃発しオーストリア=ハンガリーが同盟国側で参戦すると、3月に閉会されていた議会はそのまま開会されることはなく(〜1917年5月)、シュテュルク首相は議会の承認を得ないまま戦時動員政策を進めていった。

やがて敗色が濃くなると反戦派が台頭、シュテュルクは戦争継続の元凶と見なされ、1916年10月21日ウィーンのホテルで社会民主党左派の指導者フリードリヒ・アドラーによって射殺された。F・アドラーは死刑を求刑されたが、公判での彼の弁論は戦争を嫌悪していた国民の支持を受け、結局敗戦による二重帝国の崩壊に伴い恩赦で釈放、その後も政治活動を続けた。

参考文献

先代
パウル・ガウチュ
(再任)
オーストリアの首相
1911年 - 1916年
次代
エルネスト・ケルバー
(再任)


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シュテュルク」の関連用語

シュテュルクのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シュテュルクのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのカール・フォン・シュテュルク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS