サミュエル・サンズ (初代サンズ男爵)とは? わかりやすく解説

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サミュエル・サンズ (初代サンズ男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/05 13:54 UTC 版)

The Right Honourable英語版
初代サンズ男爵
PC
財務大臣
任期
1742年2月12日 – 1743年12月12日
君主 ジョージ2世
首相 ウィルミントン伯爵
ヘンリー・ペラム
前任者 サー・ロバート・ウォルポール
後任者 ヘンリー・ペラム
個人情報
生誕 1695年8月10日
死没 1770年4月21日
ハイゲート・ヒル
国籍 イギリス人
政党 ホイッグ党
配偶者 レティシア・ティッピング

初代サンズ男爵サミュエル・サンズ英語: Samuel Sandys, 1st Baron Sandys [sændz], PC1695年8月10日 - 1770年4月21日)は、グレートブリテン王国の政治家。財務大臣庶民院院内総務を歴任した。

生涯

ウスター選挙区英語版選出の庶民院議員エドウィン・サンズと妻アリスの間の長男として生まれた[1]エリザベス1世時代のヨーク大主教エドウィン・サンズ英語版の直系の子孫である[1]。1711年4月28日にオックスフォード大学ニュー・カレッジ英語版に入学したが、卒業しなかった[1]。その後は外国に行ったが、1718年3月の補欠選挙でウスター選挙区から選出され、以降叙爵により貴族院に移るまで同選挙区で当選し続けた[1]

1730年2月16日、サンズは政府で役職についているか年金を受け取っている人が庶民院議員になることを禁じる年金法案(Pension Bill)を提出した[1]。法案は庶民院で成立したが貴族院で否決され、以降度々再提出したもののことごとく貴族院で否決されている[1]。1733年2月にはサー・ロバート・ウォルポールによる、減債基金から50万ポンドをおろす法案に反対し、また物品税法案にも反対した[1]。以降1734年2月のボルトン公爵とコバム子爵の罷免法案、1734年2月と1740年1月の庶民院における官僚と士官の人数制限法案などを提出して与党批判を強めたが、いずれも否決された[1]。1741年2月にはついにウォルポール罷免動議を提出したものの、賛成106と反対290であっさりと否決された[1]。同年4月、サンズは政府の外交政策を批判、議員に対し「グレートブリテン王に忠誠を誓ったのであって、ハノーファー選帝侯に誓ったのではない」と述べた[1]

ウォルポールが失脚すると、サンズはウィリアム・パルトニーの影響を通じてカートレット内閣財務大臣に任命され、枢密院の顧問官にもなった[1]。1742年3月に七年議会法の廃止に反対した[1]

1743年12月12日、ヘンリー・ペラムがサンズに代わって財務大臣に就任した。続く20日、サンズはサンズ男爵に叙され、その2日後に貴族院に入った[1]王室会計長官英語版に任命されたものの、12月にブロード・ボトム内閣が成立すると解任された[1]。以降巡回裁判官英語版商務委員会第一卿を歴任した[1]

ハイゲート・ヒルから馬車に乗って下ってくるとき、馬車がひっくり返ったためサンズ男爵は怪我し、その怪我が原因で1770年4月21日に死去した。オンバーズリー英語版に埋葬された[1]

評価

英国人名事典はサンズ男爵がサー・ロバート・ウォルポールへの反対で名を上げたため、ウォルポールが失脚すると途端に影響力を失ったと評している[1]。そのことを根に持っているウォルポールの息子ホレス・ウォルポールはサンズ男爵が「ただ一度だけしか笑わなかった。その一度は親友が大腿を怪我したときだった」との悪口を口にしたという[1]。一方、チャールズ・ハンベリー・ウィリアムズ英語版はサンズ男爵を評価し、精力的に動議を提出したことを称えて「動議提出者」(motion-maker)と呼び、トバイアス・スモレットの『イングランド史』でもそう呼ばれた[1]

家族

1724年、初代準男爵サー・トマス・ティッピング英語版の長女レティシアと結婚、7男3女をもうけた[1]

  • エドウィン(1726年4月28日 - 1797年3月11日) - 第2代サンズ男爵
  • マーティン(1729年ごろ – 1768年12月26日) - 1760年、メアリー・トランブル(Mary Trumbull、1769年没、ウィリアム・トランブルの娘)と結婚、2男1女をもうけたが、息子ウィリアム(1761年 – ?、10代半ばで没)、エドウィン(1765年1月15日 – 1785年11月23日)は早世した[2]。娘メアリー(1764年 – 1836年)は後にサンズ男爵家の遺産を継承した[3][4]
  • アン - クリストファー・ベセル(Christopher Bethell)と結婚[5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t Lee, Sidney, ed. (1897). "Sandys, Samuel" . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 50. London: Smith, Elder & Co.
  2. ^ Davis, Martin (2020). Mary Marchioness of Downshire and Baroness Sandys, 1764-1836 (英語). Ombersley Archive. pp. 20–21.
  3. ^ Richey, Rosemary (3 January 2008) [23 September 2004]. "Hill [née Sandys], Mary, marchioness of Downshire and suo jure Baroness Sandys of Ombersley". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/74334 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ Davis, Martin (2020). Mary Marchioness of Downshire and Baroness Sandys, 1764-1836 (英語). Ombersley Archive. p. 46.
  5. ^ Burke, Sir Bernard (1885). A Genealogical and Heraldic Dictionary of the Peerage and Baronetage (英語) (47th ed.). London: Harrison and Sons. p. 1171.

関連図書

外部リンク

グレートブリテン議会英語版
先代
サミュエル・スウィフト
トマス・ウィルド英語版
庶民院議員(ウスター選挙区英語版選出)
1718年 - 1743年
同職:トマス・ウィルド英語版 1718年 - 1727年
サー・リチャード・レーン 1727年 - 1734年
リチャード・ロックウッド英語版 1734年 - 1740年
トマス・ウィニングトン英語版 1741年 - 1743年
次代
トマス・ウィニングトン英語版
サー・ヘンリー・ハーパー準男爵英語版
公職
先代
サー・ロバート・ウォルポール
財務大臣
1742年 - 1743年
次代
ヘンリー・ペラム
庶民院院内総務
1742年 - 1743年
先代
トマス・ウィニントン英語版
王室会計長官英語版
1744年
次代
エドマンド・ウォラー英語版
先代
ハリファックス伯爵
商務委員会第一卿
1761年 - 1763年
次代
チャールズ・タウンゼンド
司法職
先代
リーズ公爵
巡回裁判官英語版
トレント川以南

1756年
次代
ブレドルバン・ホランド伯爵英語版
先代
エッジカム男爵
巡回裁判官英語版
トレント川以北

1759年 - 1761年
次代
リーズ公爵
グレートブリテンの爵位
爵位創設 サンズ男爵英語版
1743年 - 1770年
次代
エドウィン・サンズ



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