コスメ・バスケス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 09:02 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はバスケス、第二姓(母方の姓)はスビアブレです。 |
|
||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 | コスメ・バスケス・スビアブレ | |||||
愛称 | マドリードの天使(Angel de Madrid) | |||||
カタカナ | コスメ・バスケス | |||||
ラテン文字 | Cosme Vázquez | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ![]() |
|||||
生年月日 | 1904年1月15日 | |||||
出身地 | ポンテベドラ県モンダリス | |||||
没年月日 | 1976年8月27日 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW / MF | |||||
ユース | ||||||
1921-22 | ![]() |
|||||
1922-25 | ![]() |
|||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1925-1925 | ![]() |
|||||
1925-1929 | ![]() |
17 | (15) | |||
1929-1931 | ![]() |
16 | (4) | |||
![]() |
||||||
代表歴2 | ||||||
1928-28 | ![]() |
|||||
1928-28 | ![]() |
|||||
1. 国内リーグ戦に限る。2019年1月7日現在。 2. 2019年1月7日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
コスメ・バスケス・スビアブレ(Cosme Vázquez Subiabre、1904年1月15日 - 1976年8月27日)は、スペイン・ポンテベドラ県モンダリス出身の元サッカー選手。ポジションはフォワードとミッドフィールダー[1][2]。
経歴
チリ国籍の女性エメリナ・スビアレ・ペーニャの息子であり、相当に裕福な家庭で育ったという。工学を学んでいたが、サッカーに熱中して勉強を放棄してしまった。しかし点取り屋としての才能は本物であり、19歳だった1925年の11月、ガリシア州の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ使徒杯」でその能力を発揮した。その直後にセルタ・デ・ビーゴでデビューするが、数年間を経て首都のアトレティコ・マドリードと契約した。
1925-26シーズンにカンペオナート・レヒオナル・セントロ(マドリード県の地域大会)で準優勝、チームに定着する。1926年5月26日、メスタージャでのコパ・デル・レイ1925-26準決勝で前所属のセルタと対戦。延長戦の末にバスケスの決勝点で3-2と勝利し決勝進出を決めた。だが、FCバルセロナに敗れ準優勝に終わった。
1928年6月、バスケスはアルゼンチン代表とウルグアイ代表のヨーロッパツアーに選手として参加した。しかしスペインでリーガ・エスパニョーラが創設される事を知り、マドリードへ戻った。初年度の1928-29シーズンには17試合出場15得点でランキング2位となった。翌年、バスケスはFWの相方であるルイス・オラソと共にレアル・マドリードに移籍。しかしここでは2シーズンで15試合4得点と沈黙してしまう。1931年、セグンダ・ディビシオンへ降格していたセルタへ復帰。レアル・ムルシア戦とカタルーニャFC戦で2得点するなどの活躍をした。
脚注
- ^ “Cosme, Cosme Vázquez Subiabre - Futbolista”. www.bdfutbol.com. 2019年1月7日閲覧。
- ^ Bacariza, Publicado por Marcos L.. “COSME VAZQUEZ”. 2019年1月7日閲覧。
- コスメ・バスケスのページへのリンク