コスメ・サン・マルティンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > コスメ・サン・マルティンの意味・解説 

コスメ・サン・マルティン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/19 23:52 UTC 版)

コスメ・サン・マルティン
Cosme San Martín
生誕  
(1849-09-27) 1849年9月27日
バルパライソ
死没 1906年4月1日(1906-04-01)(60歳)
サンティアゴ

コスメ・サン・マルティン(Cosme San Martín Lagunas[1]1849年9月27日 - 1906年4月1日)は、チリの画家。サンティアゴの国立美術学校(Academia de Pintura)の4代目の校長であり、最初のチリ生まれの校長になった。画家としては肖像画や歴史画などさまざまなジャンルの作品を描いた。[2]

略歴

チリ中部のバルパライソで生まれた。15歳で、サンティアゴに移り、国立美術学校(Academia de Pintura)でアレサンドロ・チッカレリやエルンスト・キルヒバッハらに学び、同時期の学生にはペドロ・リラオノフレ・ハルパがいる。

ヨーロッパ留学の奨学金の得られるコンクールで優勝し[3]、1875年にパリに留学し、スペイン出身の画家、フアン・アントニオ・ゴンザレス(1842-1920)の工房などで、1873年からパリに留学していたペドロ・リラとともに学んだ[3] 。パりでは、フランス芸術家協会の展覧会に作品を出展し、作品は1880年に批評家のレヴューで好意的に取り上げられた。

ヨーロッパで10年ほど活動して帰国した後、国立美術学校の副校長になり、1883年にイタリア生まれの画家フアン・モーキの後任として国立美術学校の校長に任じられた。イタリアやドイツ出身のチッカレリ、キルヒバッハ、モーキらの後を継いだ最初のチリ出身の校長となった[2]。熱心な教師として知られ、1893年にはペドロ・リラが校長に選ばれるが、1900年まで教師として働いた。

作品

参考文献

  1. ^ www.geni.com, Cosme San Martín Lagunas
  2. ^ a b Biographical notes @ Artistas Plásticos Chilenos.
  3. ^ a b Brief biography @ MCN Biografías.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  コスメ・サン・マルティンのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「コスメ・サン・マルティン」の関連用語

1
フアン・モーキ 百科事典
36% |||||

2
30% |||||

3
16% |||||

コスメ・サン・マルティンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



コスメ・サン・マルティンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのコスメ・サン・マルティン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS