ガイウス・クラウディウス・ケント
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/07 17:04 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ガイウス・クラウディウス・ケント C. Claudius Ap. f. C. n. Centho | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | クラウディウス氏族 |
官職 |
執政官(紀元前240年) ケンソル(紀元前225年) インテルレクス(紀元前216年) 独裁官(紀元前213年) |
ガイウス・クラウディウス・ケント(ラテン語: Gaius Claudius Centho、生没年不詳)は、紀元前3世紀の共和政ローマの政治家、軍人。
経歴
著名なアッピウス・クラウディウス・カエクス(アッピア街道の建設者)の第三子とする説もあるが、[1]恐らくカエクスの弟であるアッピウス・クラウディウス・カウデクスの息子である。
紀元前240年にコンスルに就任、同僚はマルクス・センプロニウス・トゥディタヌスで、この年ルキウス・リウィウス・アンドロニクスによってローマで初めて古代ギリシアの演劇が行われた[2]。
紀元前225年にケンソルに就任、同僚はマルクス・ユニウス・ペラで、この年ローマと同盟軍が動員出来る兵力は、歩兵70万騎兵7万といくつかの史料に書かれている[3][4]。
紀元前217年、翌年の執政官を決める選挙は、当時の執政官が第二次ポエニ戦争中で前線を離れる事が出来ず、インテルレクス制を提案したものの、元老院はルキウス・ウェトゥリウス・ピロを選挙管理のための独裁官に指名した。ところが彼の行った選挙には不備があり、辞任させられてしまった。結局翌前216年にインテルレクスが立てられることとなり、そのうちの一人としてケントが元老院に指名されている[5]。
紀元前213年、このときも執政官は前線に張り付いており、選挙管理のため独裁官が立てられることになった。執政官ティベリウス・センプロニウス・グラックスはケントを独裁官に指名し、ケントはクィントゥス・フルウィウス・フラックスをマギステル・エクィトゥム(副官)として選挙を行った[6]。
脚注
関連項目
公職 | ||
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先代: アウルス・マンリウス・トルクァトゥス・アッティクス、 クィントゥス・ルタティウス・ケルコ |
ローマの執政官(コンスル) 紀元前240年 同僚 マルクス・センプロニウス・トゥディタヌス |
次代: ガイウス・マミリウス・トゥッリヌス、 クィントゥス・ウァレリウス・ファルト |
公職 | ||
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先代: クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス・クンクタートル、 マルクス・センプロニウス・トゥディタヌス 紀元前230年XLI |
監察官 同僚:マルクス・ユニウス・ペラ 紀元前225年 XLII |
次代: ルキウス・アエミリウス・パプス、 ガイウス・フラミニウス 紀元前220年 XLIII |
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