プブリウス・クラウディウス・プルケル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/14 11:29 UTC 版)
プブリウス・クラウディウス・プルケル Publius Claudius Pulcher (P. Claudius Ap. f. C. n. Pulcher) |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | クラウディウス氏族 |
官職 | アエディリス・クルリス(紀元前253年) 執政官(紀元前249年) |
指揮した戦争 | ドレパナ沖の海戦(紀元前249年) |
後継者 | アッピウス・クラウディウス・プルケル |
プブリウス・クラウディウス・プルケル(ラテン語: Publius Claudius Pulcher、生没年不詳)は、第一次ポエニ戦争期の共和政ローマの政治家・軍人。名門クラウディウス氏族の出自で、コグノーメンのプルケルには美しい、麗しいというような意味がある[1]。
経歴
紀元前253年にアエディリス・クルリスを務め、紀元前249年にコンスルに当選する。そしてコンスルとして第一次ポエニ戦争に参戦、しかしカルタゴに敗戦してしまう。
理由は戦闘前の鳥占いで使われる聖なる鶏の餌のついばみ方が悪かったことを無視した結果と伝えられるが、スエトニウス、キケロ、ウァレリウス・マクシムスによれば、プブリウスは「餌を食べないのなら水なら飲むだろう」と言って聖なる鶏を海に放り投げたという。
彼自身は逃げ延びたものの、翌年の護民官に反逆罪で告訴され、12万アスもの罰金刑を受けた。
家族
スエトニウスのティベリウス伝の冒頭でクラウディウス氏族について語られるが、その3節で、父方はティベリウス・ネロの、母方はアッピウス・プルケルの子孫であり、双方ともアッピウス・カエクスの子であるとしている。近い年代に紀元前202年の執政官で、プブリウスの子でティベリウスの孫のティベリウス・クラウディウス・ネロがおり、その祖父のティベリウスである可能性はあるが、2節ではティベリウスはハンニバルと合流する前にハスドルバルを破ったとあるので、紀元前207年の執政官であるガイウスを指している可能性もあり、年齢的に考えにくい。
同様にアッピウス・プルケルはプブリウスの息子が同名ではあるが、年齢的に考えられず、プブリウスの父のアッピウスである可能性が出て来るが、祖父はガイウスであるはずで、辻褄が合わない。
紀元前264年の執政官アッピウス・クラウディウス・カウデクスが父である可能性もあり、その場合、紀元前240年の執政官ガイウス・クラウディウス・ケントが恐らく兄弟となる。姉妹のクラウディアは紀元前246年に罰金刑を受けている。
脚注
参考文献
- T. R. S. Broughton. The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. (American Philological Association, 1951年, 1986年再版) pp.214-217
関連項目
公職 | ||
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先代: ガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌス、 ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングス |
ローマの執政官(コンスル) 紀元前249年 同僚 ルキウス・ユニウス・プッルス |
次代: ガイウス・アウレリウス・コッタ、 プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌス |
固有名詞の分類
共和政ローマの人物 |
ガイウス・サッルスティウス・クリスプス ルクレティウス プブリウス・クラウディウス・プルケル ティトゥス・ラルキウス・フラウス プブリウス・センプロニウス・トゥディタヌス |
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