カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/25 07:49 UTC 版)
| カール・フェルディナント Karl Ferdinand | |
|---|---|
| ハプスブルク=テシェン家 | |
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| 称号 | オーストリア大公 | 
| 出生 | 1818年7月29日  オーストリア帝国、ウィーン | 
| 死去 | 1874年11月20日(56歳没)  オーストリア=ハンガリー帝国、モラヴィア、ジドロホヴィツェ、ジドロホヴィツェ宮殿 | 
| 埋葬 |  オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン、カプツィーナー納骨堂 | 
| 配偶者 | エリーザベト・フランツィスカ | 
| 子女 | 
        一覧参照
        
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| 父親 | カール | 
| 母親 | ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ | 
| 宗教 | キリスト教カトリック教会 | 
カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン(Karl Ferdinand von Österreich-Teschen, 1818年7月29日 - 1874年11月20日)は、オーストリアの皇族。
父テシェン公カールや兄アルブレヒト大公と同様に軍人として活躍した。
生涯
 
   1818年、オーストリア皇帝フランツ1世の弟テシェン公カールとその妻ヘンリエッテ・アレクサンドリーネの次男として生まれた。 「アスペルンの英雄」カール大公の息子であるカール・フェルディナントは、ブルノの歩兵第57連隊から軍歴が始まった。その後、イタリアで旅団の指揮を執り、1848年にプラハで反乱軍と戦った。1859年にモラヴィアとシレジアの将軍となり、1860年にブルノに戻った。
1854年4月18日、ウィーンで同族の従妹であるエリーザベト・フランツィスカと結婚した。ハンガリー宮中伯ヨーゼフ・アントン大公の娘であるエリーザベト・フランツィスカはモデナ公子フェルディナント・カールの未亡人で、前夫との間に後にバイエルン王妃となったマリア・テレジアを儲けていた。
2人の間には6人の子供が生まれた。
- フランツ・ヨーゼフ(1855年)
- フリードリヒ(1856年 - 1936年) - 第一次世界大戦時の陸軍最高司令官、伯父アルブレヒトの跡を継いでテシェン公となった。
- マリア・クリスティーナ(1858年 - 1929年) - スペイン王アルフォンソ12世妃
- カール・シュテファン(1860年 - 1933年) - 海軍元帥
- オイゲン(1863年 - 1954年) - 陸軍元帥、ドイツ騎士団総長
- マリア・エレオノーラ(1864年)
固有名詞の分類
| オーストリアの軍人 | シュテファン・フォン・エスターライヒ オットー・フェルディナンド・フォン・トラウン カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン オイゲン・フォン・ザヴォイエン ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ | 
| ハプスブルク=テシェン家 | マティルデ・フォン・エスターライヒ マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン レオ・カール・フォン・エスターライヒ アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン | 
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