オルク・テムル (ドルベン氏)とは? わかりやすく解説

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オルク・テムル (ドルベン氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/05 07:47 UTC 版)

オルク・テムル(? - 1352年)は、大元ウルスに仕えたドルベン氏出身のモンゴル人。

元史』などの漢文史料では月魯帖木児 (yuèlǔ tièmùér) と表記される。

概要

オルク・テムルはドルベン氏の出で、曽祖父のグユク(貴裕)はチンギス・カンに仕えて管領怯憐口怯薛官に任命された人物であった。祖父のカラ(合剌)もグユクの地位を継いでクビライに仕え、父のブラルキ(普蘭奚)はケシクテイ(宿衛)から中書右司員外郎の地位に就き、丞相ハルガスンとともにクルク・カアン(武宗カイシャン)の擁立に尽力して山北遼東道粛政廉訪使の地位にまで至った人物であった[1][2]

オルク・テムルは幼いころから博覧強記なことで知られ、12歳の時にオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の命を受けてハルガスンの孫のトゴンとともに国学に入っている。その後ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の宿衛に入り、ある時アユルバルワダがオルク・テムルを見て「その非凡な容貌の者は誰の子か」と尋ねた。そこでオルク・テムルがブラルキの子であると答えたところ、アユルバルワダは「汝の父の賛謀によって国難が定められたことを、朕は未だかつて忘れたことはない」と述べ、四怯薛札撒火孫(4ケシク・ジャサクスン)に任じたとの逸話が伝えられている[3][4]

このころ、ハルガスンがオルク・テムルを中書蒙古必闍赤に起用しようとしたが、オルク・テムルはこれを辞退した。そこでハルガスンがどのような地位に就くことを欲しているのか尋ねたところ、オルク・テムルは御史台と答えたため、人々はその志を壮大であると評したという。はたして、その後監察御史の地位を拝命することとなり、このころ太師・右丞相テムデルの弾劾に加わっている。その後、兵部郎中、殿中侍御史、給事中・左侍儀・同修起居注、右司郎中などを歴任し、ブヤント・カアンが太上皇と称しようとした時は、これを諫めて止めさせたとの逸話が残っている[5]

ブヤント・カアンが崩御した後、ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)の治世下でテムデルが復権すると、テムデルの弾劾を行った一人としてオルク・テムルは報復人事を受けた。オルク・テムルは山東塩運司副使とされた後、山南江北道粛政廉訪副使の地位に遷っている。その後テムデルが死去し、ゲゲーン・カアンも南坡の変によって暗殺されると、1323年(至治3年)に泰定帝イェスン・テムル・カアンが新たに即位した。イェスン・テムル・カアンの治世中、オルク・テムルは汴梁路総管、ついで武昌路総管に任命されたが、親の世話を理由に赴任を固辞している[6]

1328年(致和/天暦元年)、イェスン・テムル・カアンの死に伴って天暦の内乱が勃発すると、大都派の有力者である河南行省平章バヤンがオルク・テムルに共に兵を起こすよう誘った。しかしオルク・テムルはこれを固辞したことでバヤンの怒りを買い、また丞相ベク・ブカとも対立していたこともあり、大都派が勝利した後は乾寧安撫司に左遷された。その後、1333年(至順4年)には雷州に移っている[7]

1340年(後至元6年)にオルク・テムルはウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)によって召喚され、1342年(至正2年)に入覲した際にはウカアト・カアンの下に留まるよう言われたが、亡くなった母の葬儀が終わっていないことを理由に固辞している。1344年(至正4年)からは同知将作院事、ついで大宗正府也可札魯花赤(イェケ・ジャルグチ)の地位に就き、1349年(至正9年)には翰林学士承旨・知経筵事の地位を拝命した[8]

1352年(至正12年)、江南において紅巾の乱が勃発すると、オルク・テムルは平章政事に任命されて江浙行省に派遣された。現地に赴いたオルク・テムルは民兵数千人を募り、建徳では賊の首魁の何福を斬り、淳安などを奪還し、1万人余りの捕虜を得る功績を挙げた。しかし同年7月、オルク・テムルは徽州に滞在中に病により死去してしまった[9]

脚注

  1. ^ 片山1980,31頁
  2. ^ 『元史』巻144列伝31月魯帖木児伝,「月魯帖木児、卜領勤多礼伯台氏。曽祖貴裕、事太祖、為管領怯憐口怯薛官。祖合剌、襲父職、事世祖。父普蘭奚、由宿衛為中書右司員外郎、与丞相哈剌哈孫建議迎立武宗、累遷至山北遼東道粛政廉訪使」
  3. ^ 片山1980,65頁
  4. ^ 『元史』巻144列伝31月魯帖木児伝,「月魯帖木児幼警穎、読書強記、俶儻有大志。年十二、成宗命与哈剌哈孫之子脱歓同入国学。仁宗時入宿衛、一日帝顧問左右曰『斯人容貌不凡、誰之子耶』。左右忘其父名、月魯帖木児即対曰『臣父普蘭奚也』。帝曰『汝父賛謀以定国難、朕未嘗忘』。因命脱忽台伝旨四怯薛札撒火孫、令常侍禁廷、毋止其入」
  5. ^ 『元史』巻144列伝31月魯帖木児伝,「哈剌哈孫欲用為中書蒙古必闍赤、輒辞焉。哈剌哈孫曰『汝年幼、欲何為乎』。対曰『欲為御史爾』。人壮其志。久之、遂拝監察御史、巡按上都、劾奏太師・右丞相帖木迭児受張弼賕六万貫貸死。帝怒、砕太師印、賜月魯帖木児鈔万貫、除兵部郎中、拝殿中侍御史。遷給事中・左侍儀・同修起居注。尋為右司郎中、賜坐便殿、帝顧左右謂曰『月魯帖木児識量明遠、可大用者也』。他日、帝語近臣曰『朕聞前代皆有太上皇之号、今皇太子且長、可居大位、朕欲為太上皇、与若等游観西山以終天年』。御史中丞蛮子・翰林学士明里董阿皆称善。月魯帖木児独起拝曰『臣聞昔之所謂太上皇、若唐玄宗・宋徽宗、皆当禍乱、不得已而為之者也。願陛下正大位、以保万世無疆之業、前代虚名何足慕哉』。帝善其対」
  6. ^ 『元史』巻144列伝31月魯帖木児伝,「仁宗崩、帖木迭児復入中書、拠相位。参議乞失監以受人金帯繋獄、帖木迭児乃使乞失監愬月魯帖木児為御史時誣丞相受賕。皇太后命丞相哈散等即徽政院推問不実、事遂釈。帖木迭児乃奏以月魯帖木児為山東塩運司副使、降亜中大夫為承事郎、期月間塩課増以万計。丁外艱、扶喪西還。擢山南江北道粛政廉訪副使。泰定初、遷汴梁路総管、再調総管武昌、以養親不赴」
  7. ^ 『元史』巻144列伝31月魯帖木児伝,「致和元年、河南行省平章伯顔矯制起月魯帖木児為本省参知政事、共議起兵。月魯帖木児固辞曰『皇子北還、問参政受命何人、則将何辞以対』。伯顔怒。会明里董阿迓皇子過河南、而月魯帖木児為御史時嘗劾其娶娼女冒受封、明里董阿因説伯顔収之、丞相別不花亦与之有隙、乃謫月魯帖木児乾寧安撫司安置。至順四年、移置雷州」
  8. ^ 『元史』巻144列伝31月魯帖木児伝,「至元六年、順帝召之還。至正二年、入覲、帝欲留之、以母喪未葬辞。四年、乃起同知将作院事。尋除大宗正府也可札魯花赤。九年、由太医院使拝翰林学士承旨・知経筵事。進読之際、引援経史、一本于王道、帝嘉納焉」
  9. ^ 『元史』巻144列伝31月魯帖木児伝,「十二年、江南諸郡盗賊充斥、詔拝月魯帖木児平章政事、行省江浙、因言于丞相脱脱曰『守禦江南為計已緩、若得従権行事、猶有可為』、不従。陛辞、賜尚醞・御衣・弓矢・甲冑・衛卒十人・鈔万五千貫以行。比至鎮、引僚属集父老詢守備之方、招募民兵数千人、号令明粛。統師次建徳、獲首賊何福斬于市、遂復淳安等県、俘獲万餘人、復業者三万餘家。是年七月、次徽州、以疾卒于軍中」

参考文献

  • 元史』巻144列伝31月魯帖木児伝
  • 新元史』巻215列伝112月魯帖木児伝
  • 片山共夫「元朝怯薛出身者の家柄について」『九州大学東洋史論集』、1980年



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