ウァレリア・マクシミラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/15 12:10 UTC 版)
| ウァレリア・マクシミラ Valeria Maximilla |
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| ローマ皇后 | |
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ウァレリア・マクシミラと考えられている頭像(蔵:サン=レーモン博物館)[1]
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| 在位 | 306年 – 312年 |
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| 出生 | 293年以前 |
| 死去 | 312年以降 |
| 配偶者 | マクセンティウス |
| 子女 |
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| 父親 | ガレリウス |
ウァレリア・マクシミラ(ラテン語: Valeria Maximilla、fl. 293年 – 312年)は、ローマ皇帝マクセンティウスの皇后。
経歴
マクシミラは、後のローマ皇帝(東方正帝)ガレリウスの娘である。母はガレリウスの最初の妻だが、名前は判明していない。293年ごろ、西方正帝マクシミアヌスの息子であるマクセンティウスと結婚した。これはガレリウス家とマクシミアヌス家の関係を深めるための政略結婚と考えられている。マクセンティウスとの間には2人の子を儲けたが、そのうち名前が判明しているのは長男のウァレリウス・ロムルスのみである。次男については、312年に処刑されたアウレリウス・ウァレリウスと推察されているが、定かではない。マクシミラは皇帝の娘であるため、「ノビリッシマ・フェミナ」(Nobilissima Femina、最も高貴な女性)の名誉称号を有していた。
306年10月、マクセンティウスはマクシミラの父であるガレリウスの反対を押し切って、皇帝に擁立された。ガレリウスは307年に「簒奪者」であるマクセンティウスの打倒を試みたものの、失敗している。その後、マクセンティウスは312年にコンスタンティヌス1世がイタリアに侵攻するまでの間、ローマ、イタリア、アフリカの支配者であり続け、マクシミラもローマ皇后として君臨した。少なくともミルウィウス橋の戦いまでは、マクセンティウスとマクシミラは共に過ごしていたことが分かっているが、戦いの後、マクシミラは歴史から姿を消しており、以降の消息は不明である。
マクシミラの肖像は、マクセンティウス治世下に発行された貨幣に一切描かれていない。なお、現在カピトリーノ美術館に収蔵されている損傷した彫像が、マクシミラのものであると推測されている。この彫像がマクシミラだとすると、マクセンティウスの失脚後、彼同様にその彫像が毀損された可能性がある[2]。
伝説
マクシミラは、ヤコブス・デ・ウォラギネが著した『黄金伝説』の一節である、アレクサンドリアのカタリナの聖人伝に登場する名もなき女王である可能性が指摘されている。この伝説では、マクセンティウスはキリスト教に対する迫害者として描かれており、カタリナと出会った女王はキリスト教に改宗したが、その後マクセンティウスによって2人は拷問に架けられて処刑された[3]。
15世紀にイタリアの聖人伝作家であるペトルス・デ・ナタリブスが著したカタリナの伝記では、この女王に「ファウスティナ」の名が与えられている。ファウスティナは、軍隊長のポルピュリウスに付き添われてカタリナの牢獄に向かったが、結果としてファウスティナとポルピュリウス、その配下の兵士200人がキリスト教に改宗したため、全員マクセンティウスによって処刑された[4][5]。東方正教会では、ファウスティナ、ポルピュリウスとその兵士は、カタリナと同じ記念日(ロシア正教会では11月24日、ギリシア正教会では11月25日)を共有している。
脚注
- ^ Capus, Pascal (2019) (フランス語). Portrait de Valeria Maximilla (?). , Musée d’Archéologie de Toulouse. ISBN 978-2-909454-41-2
- ^ Varner, Eric R. (2004). Mutilation and Transformation (Damnatio Memoriae and Roman Imperial Portraiture). Leiden, The Netherlands: Koninklijke Brill NV. pp. 219–220. ISBN 90-04-13577-4
- ^ “The Life of Saint Katherine”. The Golden Legend or Lives of the Saints compiled by Jacobus de Voragine. 2011年12月7日閲覧。
- ^ Coutts Lindsay (1885). Sketches of the History of Christian Art. John Murray. p. 62. "[From Peter de Natalibus.] Catherine, Virgin and Martyr, suffered at Alexandria under Maxentius the Emperor. [...] the Queen Faustina, his wife, touched with pity, bribed Catherine's gaolers with the assistance of Porphyrius, captain of the host, and came by night to the prison."
- ^ Henry Hucks Gibbs, ed (1884). The Life and Martyrdom of Saint Katherine of Alexandria. London: Nichols. p. 116. "Peter de Natalibus gives her the name Faustina, under which name, he says, she was canonized, the day of her martyrdom being 9 Kal. Dec. I believe there is no evidence that Maximin had a wife named Faustina; and Maxentius, as I have before said, was never in Alexandria. Archbishop Falconius [Niccolò Carminio Falconi / Nicolaus Carminius Falconius, 18th c.] calls the empress "uxor illa per somnium Maxentii imperatoris.""
参考文献
- DiMaio, Jr., Michael. “Maxentius (306-312 A.D.)”. De Imperatoribus Romanis: An Online Encyclopedia of Roman Rulers and Their Families. 2011年12月7日閲覧.
| 王室の称号 | ||
|---|---|---|
| 先代 ガレリア・ウァレリア |
ローマ皇后 306年–312年 共同統治者 ガレリア・ウァレリア (307年–311年) ファウスタ (309年–312年) |
次代 ファウスタ |
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