イワン・ドゥルノヴォとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > イワン・ドゥルノヴォの意味・解説 

イワン・ドゥルノヴォ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/27 14:27 UTC 版)

イワン・ドゥルノヴォ

イワン・ニコラエヴィッチ・ドゥルノヴォロシア語: Ива́н Никола́евич Дурново́Ivan Nikolayevich Durnovo1834年3月13日ユリウス暦3月1日)-1903年6月11日ユリウス暦5月29日))は、帝政ロシア政治家

カルーガ州出身。サンクトペテルブルクミハイル王子工兵学校で学ぶ。チェルニゴフ県知事エカテリノスラフ県知事を経て1889年から1895年まで内務大臣1895年から1903年にかけて大臣委員会議長(後の十月詔書首相相当になるポストであったが、実権は無かった)を務めた。出張先のベルリン近郊で執務中に死去した。

上司との円滑なコミュニケーションには長けていたものの政治能力が欠如していたと指摘されており、後任者のセルゲイ・ヴィッテは彼を酷評している。

先代
ドミトリー・トルストイ
ロシア帝国内務大臣
1889年-1895年
次代
イワン・ゴレムイキン
先代
ニコライ・ブンゲ
ロシア帝国大臣委員会議長
1895年-1903年
次代
セルゲイ・ヴィッテ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イワン・ドゥルノヴォ」の関連用語

イワン・ドゥルノヴォのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イワン・ドゥルノヴォのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイワン・ドゥルノヴォ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS