アラワルス
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アラワルス(モンゴル語: Alawars、生没年不詳)とは、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。『元史』における漢字表記は阿剌瓦而思(ālàwǎérsī)。
- ^ 屠寄は『蒙兀児史記』において、『元史』巻63地理志6で「不賽因(=フレグ・ウルスのアブー・サイード)」の領地とされる「巴瓦児的」と同一の地名とし、現トゥース西北の城であろうと指摘している
- ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝では出身地の八瓦耳でチンギス・カンに投降したことになっているが、屠寄は『蒙兀児史記』でチンギス・カンはカスピ海に近いホラーサーン西部方面に至ったことはなく、実際には「ブハラで投降した」のが誤って伝わったのではないかと考証している
- ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝,「阿剌瓦而思、回鶻八瓦耳氏、仕其国為千夫長。太祖征西域、駐蹕八瓦耳之地、阿剌瓦而思率其部曲来降。従帝親征、既破瀚海軍、又攻輪台・高昌・于闐・尋斯干等、靡戦不克、没於軍」
- ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝,「子阿剌瓦丁、従世祖北征有功、至元二十九年卒、寿一百二歳」
- ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝,「子贍思丁、有子五人、長烏馬児、陳州達魯花赤;次不別、隆鎮衛都指揮使;次忻都、監察御史;次阿合馬、拱衛直司都指揮使;次阿散不別、驍勇善騎射、歴事成宗・武宗・仁宗、数被寵遇、計前後所賜楮幣余四十万緡、他物称是、積官栄禄大夫、三珠虎符」
- ^ 牧野2012,1030頁
- ^ 牧野2012,1035頁
- ^ 『元史』巻123列伝10阿剌瓦而思伝,「子斡都蛮襲職。致和元年八月、自上都逃来、丞相燕帖木児任為裨将、率壮士百人、囲滅里帖木児等於陀羅台駅、擒之以献、特賜衣一襲、及禿禿馬失甲・金束帯各一、白金一百両、鈔二百錠。天暦元年九月、充行院同僉。十月、従撃忽剌台・馬札罕等軍於盧溝橋、敗之、追至紫荊関、多所俘獲、招降安童所将軍一千五百人、復以功受上賞。二年、進枢僉院。三年、以隆鎮衛都指揮使兼領拱衛司」
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