アドルフ・フリードリヒ・シュテンツラーとは? わかりやすく解説

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アドルフ・フリードリヒ・シュテンツラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 01:54 UTC 版)

アドルフ・フリードリヒ・シュテンツラー
人物情報
生誕 (1807-07-09) 1807年7月9日
 スウェーデン(現・ ドイツ
ヴォルガスト
死没 1887年2月27日(1887-02-27)(79歳)
ドイツ帝国(現・ ポーランド
ヴロツワフ
出身校 グライフスヴァルト大学ドイツ語版
ベルリン大学
ボン大学
学問
研究分野 サンスクリット研究
研究機関 ブレスラウ大学
博士課程
指導教員
フランツ・ボップ
指導教員 アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル
ゲオルク・フライターク
主な指導学生 リス・デービッズ
リヒャルト・ピシェル
学位 博士(ベルリン大学・1829年)
学会 プロイセン科学アカデミー
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アドルフ・フリードリヒ・シュテンツラードイツ語: Adolf Friedrich Stenzler1807年7月9日 - 1887年2月27日)は、ドイツ東洋学者インド学者。ドイツにおける初期のサンスクリット研究者で、サンスクリット教科書の編纂で知られる。

略歴

1807年、ポメラニア地方のヴォルガスト(当時はスウェーデンの飛び地)に生まれ、1826年からグライフスヴァルト大学ドイツ語版神学を学んだ。早くから東洋の言語に興味を持ち、翌1827年ベルリン大学に移ってフランツ・ボップからサンスクリット比較言語学を学んだ。1828年にはボン大学に移り、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルにサンスクリットを、ゲオルク・フライタークアラビア語を学んだ。1829年に『ブラフマヴァイヴァルタ・プラーナ』の研究でベルリン大学の博士の学位を取得した[1]

同年、当時の東洋学の中心であったパリに住んだが、七月革命を避けてロンドンへ移り、イギリス東インド会社の所有する写本を研究した[1]

1833年にブレスラウ大学の員外教授に就任し、1847年に正教授に昇任した[1]。教え子にリス・デービッズリヒャルト・ピシェルがある。

主要な著作

シュテンツラーは1869年にサンスクリットの教科書(Elementarbuch der Sanskrit-Sprache)を編纂した。後に教え子のリヒャルト・ピシェルによって改訂され、現在も使われている。荻原雲来によって日本語にも翻訳された。

シュテンツラーが校訂・出版した作品にはカーリダーサの詩『ラグ・ヴァンシャ』(1832、ラテン語訳つき)[2]・『クマーラ・サンバヴァ』(1838、ラテン語訳つき)[3]・『メーガ・ドゥータ』(1874)[4]、伝シュードラカ作の戯曲『ムリッチャカティカー』(1847)[5]などの文学作品や、『ヤージュニャヴァルキヤ法典』(1849、ドイツ語訳つき)[6]、ガウタマ『ダルマ・スートラ』(1876)などのヒンドゥー法の文献がある。

脚注

参考文献



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