アグスティン・ラルディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/10 13:34 UTC 版)
アグスティン・ラルディ Agustin Lhardy |
|
---|---|
![]()
ラモン・シラ画
(1890年) |
|
本名 | Agustín Lhardy Garrigues |
誕生日 | 1847年8月20日 |
出生地 | ![]() |
死没年 | 1918年4月3日 (70歳) |
死没地 | ![]() |
国籍 | ![]() |
運動・動向 | 風景画・パティシエ |
芸術分野 | 絵画・スペイン料理 |
代表作 | 油彩『ピレネー山脈の風景』 |
アグスティン・ラルディ (西:Agustín Lhardy、1847年8月20日 - 1918年4月3日) は、スペインの画家、料理人、実業家。マドリードのレストラン「ラルディ」の二代目オーナーである。
彼は絵画を学んだのち実業家として父親のエミリオ・ラルディの跡を継ぎ、自身の料理と画業を通じてマドリードの美食運動を推進。継続的な素晴らしい業績を残した。
経歴
アグスティン・ラルディ(本名:Agustín Lhardy Garrigues)の父親であるエミリオ・ラルディは、フランス生まれのパティシエで、スペインに定住し、1839年にマドリードでレストラン「ラルディ」を設立した[1] 。1847年、アグスティンはエミリオとその妻フアナ・ガリゲスとの間に生まれ、サン・セバスティアン教会 (マドリード)で洗礼を受け、幼少期はフランスで教育を受けた。思春期になるとスペインに戻り、画家のカルロス・デ・アエスに師事して絵画と版画を学んだ。この風景画家はアグスティンに大きな影響を与えた。
アグスティンは1874年、レアル・ファブリカ・デ・プラテリア・マルティネスの展覧会で初めて公の場に姿を見せた。以後、彼は継続的に作品を出展するほか、マドリードの雑誌「白と黒 (スペインの雑誌)」にも絵画を寄稿して知名度を上げた。20世紀になると、彼は料理人と画家としての双方からラルディを運営し、マドリードの美食運動を推進した。ガストロノミーの作家、ディオニシオ・ペレス・グティエレスは、次のような詩を寄せた。

「白と黒」1899年11月
率直でごめんなさい
画家になればなるほど
そしてもちろん、たぶん
あなたはパティシエであることがわかりました
だから絵筆を残して
そして、あなたはサービスを提供します
芸術へ、あなたの工芸品に戻ってください
あなたのケーキに、パティシエ![2]
アグスティン・ラルディは1918年4月3日、70歳で死去した。ラルディの経営は娘婿のアドルフォ・テメス・ニエト(Adolfo Temes Nieto)に引き継がれた。
絵画作品
脚注
関連項目
- ムロスの芸術家コロニー
外部リンク
- アグスティン・ラルディのページへのリンク