アクィタニア侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 06:14 UTC 版)
「ウマイヤ朝のガリア侵攻」の記事における「アクィタニア侵攻」の解説
反乱鎮圧で勢いに乗った総督アブドゥッラフマーンは、続いてアクィタニアに侵攻した。731年にウードはカール・マルテルの侵攻を受けてブールジュや北アクィタニアを荒廃させられており、何とか対イスラーム防衛の兵を集めたものの、敵を押し返す力は残っておらず、アラブ軍がボルドーまで侵攻するのを止められなかった。732年、アクィタニア軍をガロンヌ川の戦いで破ったアラブ軍は、トゥールのサン=マルタン大聖堂を略奪すべく、トゥール・ポワティエ方面に向けて北上した。
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