1995年のF1世界選手権 シーズン概要

1995年のF1世界選手権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/25 00:55 UTC 版)

シーズン概要

ベネトンから参戦したミハエル・シューマッハが2年連続でワールドチャンピオンに戴冠したシーズンである。この年からベネトンのエンジンは1987年から使用していたフォード・コスワース系列のエンジンからルノーに変更された。チャンピオン争いは前年に引き続きウィリアムズデイモン・ヒルとの間で争われたものの、最終戦を1ポイント差で迎えた前年とはうって変わり、最終的には30ポイント以上離して全17戦中の第15戦パシフィックGPにてチャンピオンを決定させている。コンストラクターズチャンピオンシップも3連覇中のウィリアムズを抑えてベネトンが参戦以来初の戴冠を果たした。また、ルノーエンジンにとっては前年までのウィリアムズでの3連覇と併せて4連覇達成となっている。ドライバーではフェラーリジャン・アレジカナダGPでキャリア初優勝を遂げており、この勝利はルノーエンジンのシーズン全勝を阻む優勝にもなった。また、マクラーレンから参戦したナイジェル・マンセルはスペインGPを以ってチームを離脱することとなり、結果としてはそのまま引退となっている。

ベネトン対ウィリアムズ

ベネトン B195

ベネトンは前年中盤にチーム代表のフラビオ・ブリアトーレリジェチームを買収。リジェが使用していたルノーエンジンのベネトンへの供給を引き出すことに成功し、このシーズンからライバルであるウィリアムズが使用しているのと同じエンジンで戦うことになった。ドライバーはミハエル・シューマッハと前年の日本GPからチームに加わったジョニー・ハーバートのコンビとなっている。この年の新車B195は開幕直後はフォード・コスワース・ZETEC-Rエンジンからルノーエンジンに変更した影響もあって、ドライバビリティの安定性を欠いた面を見せていたものの、すぐさま大改良を施して第4戦スペインGPではシューマッハが優勝しハーバートが2位となるワンツーフィニッシュを達成。以後は予選こそウィリアムズ勢に先を越されることが多かったものの、高い信頼性と前年に引き続いてのピット戦略を武器にシューマッハは勝利を重ね、1992年のナイジェル・マンセルに並ぶシーズン9勝を記録[1]第15戦パシフィックGPにてシューマッハが優勝し、ヒルが3位に終わったことで、ドライバーズタイトルの連覇を達成。ハーバートもチャンピオン争いをしていたシューマッハとヒルが共倒れとなった地元イギリスGPにてF1初優勝を遂げると、同じく共倒れとなったイタリアGPでも優勝する活躍を見せ、ドライバーズランキングでも4位に入り、ベネトンのコンストラクターズ初タイトルに大きく貢献した。

その一方でウィリアムズは、デイモン・ヒルと前年セナ亡き後にデビューしたデビッド・クルサードがレギュラードライバーとして起用。ドライバーズチャンピオンシップではヒルがシューマッハのライバルとなったものの、シューマッハを脅かすような存在とまではなれなかった。また、フル参戦初年度となったクルサードは、第2戦アルゼンチンGPにてキャリア初PPも含めシーズン4度のPPを獲得したものの、優勝は第13戦ポルトガルGPでの初優勝1回に留まっている。これはこの年のウィリアムズ・FW17はPP(ポールポジション)の獲得数も含め、予選こそウィリアムズ勢がベネトンを上回る成績を記録するも、決勝ではマシンの信頼性に起因するマシントラブルによるリタイア、二人ともドライビングミスによるポイントを取りこぼしてしまい、これらが結果的にタイトル争いに影響することとなった。ウィリアムズのシーズンの成績としてはヒルとクルサードの二人で12PPを獲得したが、優勝は5勝(ヒル4勝、クルサード1勝)に留まり、コンストラクターズ4連覇を逃してしまっている。

ところが、シーズン中の8月10日に、フィアットの会長からシューマッハの翌シーズンのフェラーリ移籍が発表されるという事態が起きる。また、チームのタイトル獲得に貢献したハーバートも、シューマッハによる絶対的なナンバーワン体制を構築したベネトンチームに対して不満を示し、移籍を希望することとなり、結局ザウバーへと移籍をすることになってしまうなど、ベネトンはチーム初のコンストラクターズ戴冠を達成したものの、2人のドライバーが共に移籍をすることとなってしまった。また、ウィリアムズの方も第13戦ポルトガルGPを前にした9月20日、往年のF1ドライバーのジル・ヴィルヌーヴの息子であり、1995年のアメリカインディ選手権にてチャンピオンになったばかりのジャック・ヴィルヌーヴの翌1996年のウィリアムズへの加入が発表。クルサードは1995年で契約満了となる予定であったため、そのままチームを離脱しマクラーレンへ移籍した。

ジャン・アレジの優勝

フェラーリ 412T2

フェラーリジャン・アレジゲルハルト・ベルガーのコンビで3年目のシーズンを迎えた。この年のフェラーリは度々ウィリアムズとベネトンの2強の間に割って入る活躍を見せ、特に第6戦カナダGPではアレジがデビューから92戦目で自身の初優勝を達成しており、この勝利は結果としてルノーエンジンのシーズン全勝を阻むものとなっている。しかし、フロントローを独占した第11戦ベルギーGPやレース終盤までワンツー体制を築いた地元イタリアGPなど、トップを奪うことはあったもののマシンの信頼性が課題と勝利を加算できず、チームとしての優勝は前述のアレジの1勝に留まった。そんななか、翌年に向け、ドライバーの変更が行われる結果となり、前述のとおり、シーズン中の8月には翌シーズンのシューマッハの加入が発表され、終盤のヨーロッパGPではジョーダンエディ・アーバインを契約ごと買い取りを実施。それによりアレジとベルガーは共にベネトンへ移籍することとなった。


  1. ^ ただし、1992年は全16戦、1995年は全17戦なため、勝率ではマンセルのほうが上回っている。
  2. ^ 英語版ウィキペディアの記事
  3. ^ GIRO監修 『F1全史 1991 - 1995 第6集』 ニューズ出版、1996年、106-111頁、ISBN 978-4-938495-07-7





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