阮攸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/28 07:12 UTC 版)
各種表記 | |
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漢字・チュノム: | 阮攸 |
北部発音: | グエン・ズー |
日本語読み: | げん しゅう[1] |
名前
字は素如(トー・ニュー、ベトナム語:Tố Như / 素如)。雅名として清軒(タイン・ヒエン、ベトナム語:Thanh Hiên / 清軒)を称した[2]。
生涯
現在のハティン省ギースアン県ティエンディエン社[2][3]に、黎朝の大司徒であったグエン・ギエムの七男として生まれる[3][4]。この頃のレ朝帝室は実権を失い、北部は帝室を牛耳るトンキンチン氏が、南部は半独立状態のクアンナムグエン氏がそれぞれ支配し、更に南部ではタイソン朝が興るなど、世は大いに乱れていた。父ギエムはレ・ヒエン・トンの治世に戸部尚書として仕え[5]、兄のグエン・カン[3]やグエン・デなど兄弟の多くも要職に就き、阮攸自身も19歳で科挙に通り武官となっていた[4]。しかし景興47年(1786年)にタイソン朝のグエン・フエが都のタンロンを攻略するとチン氏当主のチン・カイは敗走し、その3年後にレ朝も滅びた。
阮攸は代々レ朝に使えた一族の末として一時は復興運動に関わるが、それが叶わぬと知ると、ホンリンで自然に親しむ隠遁生活を送るようになった[2]。タイソン朝が滅びてグエン朝が起こるとザーロン帝に召し出され[3]、不本意ながらもフースアンの宮廷に仕えるようになる[2]。ザーロン帝は阮攸を重用し、「皇帝の柱」とまで呼ばれるようになった阮攸は東閣学士に任じられ[3]、嘉隆3年(1804年)には清からの使者を国境で迎える役を務め[2]、嘉隆12年(1813年)には正使として北京に派遣された[4]。この時に『金雲翹』に接し、これを『チュエン・キウ』に翻案した[† 1]。ザーロン帝が崩御すると、後を継いだミンマン帝により三度目の対清正使に任じられる[3]が、その直後に重い病にかかり、明命元年(1820年)に没した。
作品
『金雲翹』の他、漢詩選3篇、短編詩「若い帽子屋の言葉」、チュノムで詩の「降霊」がある[2]。
- ^ 小倉は「1813年に北京に派遣、その後に金雲翹を著す」としているが、佐藤・黒田の書籍では、「1813年に金雲翹を著す」となっている。ここでは小倉説を採った。
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