週刊プロレス
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取材拒否
本誌は、杉山編集長時代末期に全日本プロレスとジャパンプロレスから、山本編集長時代に数回にわたって各プロレス団体からそれぞれ取材拒否を受けている。全日本プロレス、ジャパンプロレス、リキ・プロダクション以外は本誌からオフィスの所在地などが削除された。
- 全日本プロレス・ジャパンプロレス
- UWFの新日本参戦前後の週プロは、新日本を一方的に持ち上げて全日本への非難を繰り返し、1986年に全日本と、全日本と提携していたジャパンプロレスから取材拒否を受けた。
- リキ・プロダクション
- 1987年に発生した前田による長州力への顔面襲撃事件をめぐって、週プロは前田を援護する報道をしたため長州が激怒し、1988年5月にリキ・プロダクションから取材拒否を受けたが同年中に解除している。
- SWS
- 全日本賞賛の流れを引き継いで、週プロは全日本から多くの選手を引き抜いた新興団体SWSへの批判記事を執拗に掲載。SWSから取材拒否を受けると、誌面を通じ「SWSに関する一切の情報の掲載を控える」と通告した。
- WAR・新日本プロレス・UWFインターナショナル
- SWSから分かれた団体のひとつだったWARは同誌への取材拒否の姿勢も引き継いだが新日本との対抗戦を始めるや、同誌が新日本との兼ね合いを理由に低姿勢にまわったため同誌の取材を解禁している。なお山本は後年、「馬場から金銭を受領しそれと引き替えにSWSバッシングを行っていた」としている[18]。しかし、1996年2月に再度WARから取材拒否を受け、3月には新日本、UWFインターナショナルから取材拒否を突き付けられた[19]。
- 新日本に関しては、新日本から送られてきた取材拒否通告書に、当時の坂口征二社長の印がなかったことから山本は取材拒否は無効と主張したが、新日本は受け入れなかった。同誌は、新日本から取材拒否を通告されてしばらく後「『謎の増刊号』を発行する」と発表している。そして世に出た増刊号は、1996年4月開催の新日本の東京ドーム大会を扱った「観戦記」だった。表紙も含めて試合の写真を一切使わず(写真は遠くから東京ドームを見つめる山本の後姿1枚のみ)、文章だけで構成されたもの。公式に取材活動が出来ないための苦肉の策として、山本を除く記者全員で全日本からの取材拒否を受けた時と同様に一般の客としてチケットを買って会場に潜入し、取材行為を行ったものであった。
- WAR・UWFインターナショナルは、1996年6月の山本の編集長退任並びに濱部の編集長就任と同時に取材拒否を解除したほか、新日本も濱部の編集長就任後も取材拒否を続けていたが同年中に解除している。
- ^ a b 参考:「日本プロレス全史」(1995年、BBM発行)のBBM社長池田郁雄によるまえがき。
- ^ 書籍コード:ISBN 9784583611136
- ^ GK連載コラム第5回!!「ゴング復刊!!」THE BIG FIGHT 2014年7月24日
- ^ “週プロ早版 4・22号(№2061)オールカラー化記念 ロス・インゴ初の6人揃い踏み/木谷オーナー注目発言「業界集って夏にオールスターを」/潮崎が語る30分視殺戦の真実/W-1無観客後楽園でラスト 4月8日(水)発売 定価560円 - ベースボール・マガジン社WEB” (日本語). www.bbm-japan.com. 2020年4月8日閲覧。
- ^ “昭和・平成の伝説のレスラーがファミリーマートに! 「週刊プロレス」と「ワンダ モーニングショット」コラボ缶を限定発売” (日本語). Fav-Log by ITmedia (2022年2月8日). 2022年2月9日閲覧。
- ^ 株式会社インプレス (2022年2月8日). “往年のプロレスラーたちが「缶コーヒー」に! 「ワンダ」と「週刊プロレス」コラボの缶コーヒーがファミマにて発売” (日本語). GAME Watch. 2022年2月9日閲覧。
- ^ “【マジか】狂気の缶コーヒー「ワンダ 週刊プロレス缶」の第2弾がファミマに登場! 前回より表紙のセンスが良すぎィィイイ!!” (日本語). ロケットニュース24 (2022年12月13日). 2022年12月14日閲覧。
- ^ 1947年頃から1965年まで使用。
- ^ この題字は、2010年に週プロの監修により発売されたゲームソフト『プロレス検定DS』のタイトルロゴにも使用されている。
- ^ 部数参考-担当編集者は知っている。ほぼ日刊イトイ新聞 2008年4月8日更新ページ。2014年10月5日閲覧
- ^ 参考文献『週刊プロレス 別冊』創刊25周年シリーズ1「週プロ回顧録 ~四半世紀の真実記~」(2008年、ベースボールマガジン社 雑誌29689-6/1)pp81 - 83 「元・週刊ゴング編集長から見た週プロ」(元週刊ゴング編集長小佐野景浩と当時週刊プロレス編集長佐久間一彦による対談)pp83にて小佐野「だけど山本さんは好き嫌いで書く所があったでしょ」と言及する部分がある。
- ^ 後に山本は自著『「金権編集長」ザンゲ録』(P42-43)のなかで、1983年春ごろに「噂の真相」が企画した“プロレス記者覆面座談会”に参加した際、他の出席者に二宮清純といしかわがいたことを明かしている。即ちいしかわとは以前に面識があったことになるが、山本は後に対立する形になった点について「いしかわ氏とすれば、あるいは『ターザンよ、お前の過去は知ってるぞ』という思いがあったかもしれない」と、同書に記している。
- ^ 『ゴーマニズム宣言』第六十六章・「魂の障害者・猪木」
- ^ 特に『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)未ネット地域における、取材拒否期間中の販売部数の減少は頓著だった。
- ^ “振り返ろう、10年経った週刊プロレスNEXT AGE(ネクストエイジ)”. 多重ロマンチック (2015年3月5日). 2016年10月28日閲覧。
- ^ “1996年からの私〜第17回(06年)プロレス専門誌(紙)の危機 - note カズサク(佐久間一彦)”. 2020年5月9日閲覧。
- ^ ベースボールマガジン社「週刊プロレス」No.1887 2017年2月1日号
- ^ 元プロレス雑誌編集長が告白「馬場から裏金をもらっていた」 Sports Watch 2010年06月18日
- ^ リングスCEOの前田日明は当時の同誌の記者を名指しで批判するなど、リングスとも決して良い関係ではなかった。また蝶野正洋も同誌を名指しで批判したり、JWPも取材拒否こそしなかったものの、同誌に対して取材拒否を示唆する警告を行っている。
- ^ ベースボールマガジン社『週刊プロレス』2021年2月10日号No.2105 106-107頁
- ^ a b ベースボールマガジン社『週刊プロレス』2018年4月11日号No.1950 56頁
- ^ ベースボールマガジン社『週刊プロレス』2000年10月24日号No.1000 86頁
- ^ ベースボールマガジン社『週刊プロレス』1994年5月3日号No.610 115頁
- ^ ベースボールマガジン社『週刊プロレス』2000年10月24日号No.1000 50頁
- ^ 東京スポーツの場合、報道はしたものの、写真を一切使わず最小限の記事と試合結果のみを載せただけ。事前情報も一切報じなかった。
- ^ なお、1979年、同様の大会である「プロレス夢のオールスター戦」が東京スポーツ新聞社主催で開催されているが、この際には記者発表から試合当日まで全ての発表が、オープンに記者会見で行われている。2005年、週刊ゴングは「インディーサミット」を主催しているが、やはり同誌は記者会見をオープンにしている。
- ^ ターザン山本『「金権編集長」ザンゲ録』(2010年、宝島社、ISBN 4796677798)P152-153
- ^ 国立国会図書館には、1963年8月号から1964年1月号(2巻1号)までの分(国会図書館のデータベース上は、いつ休刊または廃刊したのかまでは明記されていない)、1971年11月号(1巻1号にリセット)から1972年7月号の分を所蔵している。
- ^ 参考:杉山頴男のメールマガジン『編集とは時代の精神との格闘だ!』第1号「1章 なぜに月刊「プロレス」を週刊化したのか <1>自分一人が考えていることが、果たして世に通じるか?」(2009年12月1日発行。サンプル)
- ^ ベースボールマガジン社「週刊プロレス」1999年7月15日号編集後記
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