相良頼徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/03 05:28 UTC 版)
生涯
安永3年(1774年)5月16日、第11代藩主・相良長寛の長男(庶長子)として生まれる。はじめ世子は嫡子(正室の子で次男)の義休と決まっていたが、義休は寛政4年(1792年)9月25日に江戸にて乱心し、樅木九郎兵衛を斬殺したため(樅木は事件の2日後に死去)、寛政5年(1793年)1月28日に廃嫡され(系図には病のためと記されている)、代わって頼徳が世子に指名された。寛政6年(1794年)12月16日に従五位下、志摩守に叙任する。享和2年(1802年)2月5日、父の隠居により家督を継ぐ。
藩政においては、藩財政再建を目指して田代政典を家老に登用し、文化4年(1807年)に五人組制度の再建、文化8年(1811年)には検地による年貢増収、そのほかにも新田開発、専売などを行なった。
文政元年(1818年)10月6日、長男の頼之に家督を譲って隠居し、安政3年(1856年)10月1日に死去した。享年83。
系譜
父母
- 相良長寛(父)
- 浜崎名美恵、観智院(母) - 側室
正室
- 於津、銉 - 松平頼謙の次女
子女
脚注
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