栗田健男
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人物
- 駆逐艦長6回、駆逐隊司令3回、艦長2回、水雷戦隊司令官2回、戦隊司令官2回の経歴がある[61]。
- 好きなものは野球であり、戦後は阪神タイガースを応援していた[34]。
- 剣道に優れ、海軍部内では居合の達人として知られた[3]。
- 連合艦隊参謀長を務めた草鹿龍之介中将は栗田を「非常な猛将」と評している[62]。
- 奥宮正武中佐は、栗田の関わった作戦のほとんどが「制空権無き場所で長時間、長距離にわたって艦隊運用を行う」ことが前提にあることを指摘し、栗田が太平洋戦争で中央の作戦の尻拭いばかりさせられていたことを説明し、「長期に渡る第一線部隊での努力」が理解されていないと述べている[51]。
- 部下であった吉田俊雄によれば、「私は大学校を出ていない。君達は出ているから、作戦の段取りは君達でやってくれ」と語っていたという[63]。
- 昭和40年代半ば、帝国海軍の将官クラスが未だ健在であった時期に、多数の海軍関係者に取材を行った作家の亀井宏によれば、知名度の高い海軍関係者で、栗田を表立って批判する者は皆無に近かった[57]。さらに亀井は、軍人が戦後になって「内心は反対だった」と言った発言をするケースを「あまり上等な人間のすることではない」とし、続けて簡単に反省されたのでは戦死者は浮かばれない、腹を切るか、弁解せずに黙っている方がより正しい姿勢である旨を述べて栗田を擁護し、栗田等一部日本軍指揮官への批判的評論に関して、一般社会と組織内での人物評の落差や、その組織人たる軍人も、文章力やアピール度合いに大きな差があることに注意を促している[53]。
- 栗田に関して戦闘に積極性が欠けることについて批判がある。
- 中島親孝中佐は、栗田について「肝心なときにいなくなる。」と評している[64][65]。
- 吉田俊雄中佐は、環境の厳しい海に居続けたことが、栗田の危ない橋を渡らない、合理的感覚の形成に寄与した可能性を指摘している。
- 一方、古村啓蔵少将は怒りをあらわにして「あの戦争中栗田さんのとった行動というのはね、あれは部下に無駄な死をあたえまいとする情からきているのですよ。情の厚いひとですからね。レイテなんて、あれは一種の"特攻"ですからね。栗田さんほどの人を殺すためには、GF(聯合艦隊)もそれ相応の挨拶があってしかるべきですよ。長官自身(当時は豊田副武大将)が乗って突っ込めゃいいんだよ。自分が戦死したら、かわりの者がいないだろうというかも知れんが、冗談じゃない。かわりくらいいくらでもいるよ。」と語っている[57]。
- 佐藤清夫大尉は「レイテ沖海戦での行動を含めた栗田批判は強い語調でなされているものがあるが、その反面実証性に乏しい主張をしたにもかかわらず、自責や考えの変化を表明するといった動きはほぼ見られない」と指摘している[66]。
- 奥宮正武中佐や、黛治夫大佐(レイテ沖海戦時の利根艦長)は、海大甲種では無かった栗田に、海大甲種卒の人間が責任を押し付ける向きがあったことを指摘している。
- 栗田が第三戦隊司令官であったとき同戦隊の通信兼航海参謀であった市来崎秀丸は栗田について次のようなことを書いている[67]。
- スポーツ万能で、水泳は水府流の達人、テニスもうまく、体操の鉄棒が上手で弓道も達人であった。中学時代は野球の選手で大学からの勧誘を受けたらしい。
- 相撲が好きで、後甲板で行なわれる練習を見て楽しんでいた。
- 話好きであった。
- 部下の艦長の操艦をよく見ていた。
注釈
出典
- ^ 伊藤正徳『世界大海戦史考』(1943年)
- ^ 半藤一利編『日本軍艦戦記』文春文庫ビジュアル版、明治百年史叢書『海軍兵学校沿革』原書房
- ^ a b 生出寿『海軍おもしろ話 戦前・戦後篇』(徳間文庫・1994年)342-346頁
- ^ 歴史群像太平洋戦史シリーズ38 最上型重巡154p
- ^ 『丸スペシャル 95 蘭印攻略作戦 インド洋作戦』1985年
- ^ 亀井宏『ミッドウェー戦記』556頁
- ^ 亀井宏『ミッドウェー戦記』557頁
- ^ 歴史群像太平洋戦史シリーズ55 日米空母決戦ミッドウェー174p
- ^ ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻169頁
- ^ ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻176頁
- ^ #奥宮、太平洋戦争347頁
- ^ 半藤一利『指揮官と参謀』「小沢治三郎と栗田健男」p.194〜p.212
- ^ 光人社NF文庫 豊田穣著「撃沈」86p
- ^ 奥宮正武『提督と参謀』内「一三 栗田健男」
- ^ 児島襄『指揮官』(上)「栗田健男」、文春文庫
- ^ 『井上成美』「初級将校から大尉まで」井上成美伝記刊行会、実松譲『海軍大学教育』「海大六0年の歩み」光人社NF文庫
- ^ 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』。
- ^ a b c d e f g 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』中央公論社
- ^ 別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 133頁
- ^ 戸高一成『戦艦大和に捧ぐ』(PHP研究所、2007)80頁
- ^ a b c d e f g (二二四)「比島沖海戦に関する陳述書」GHQ参謀第2部歴史課 1949年12月20日
- ^ a b c 『決断』会見記にて
- ^ 菊澤研宗『命令違反が組織を伸ばす』光文社新書 2007年、佐藤晃「16章 フィリピンの戦い」『帝国海軍が日本を破滅させた(下) Incompetent Japanese Imperial Navy』光文社ペーパーバックス、2006年
- ^ 半藤一利、横山恵一、秦郁彦『日本海軍 戦場の教訓』
- ^ 戸部良一『失敗の本質』
- ^ 森本忠夫「レイテ沖"謎の反転"の真相」『潮』1986年9月P253-254
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』、半藤一利、横山恵一、秦郁彦『日本海軍 戦場の教訓』
- ^ 『海戦史に学ぶ』「比島沖海戦」
- ^ 岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間』(光人社、2004)160頁
- ^ 双葉社 『超精密3DCGシリーズ 戦艦大和とレイテ沖海戦』 2007年 150P
- ^ アメリカ戦略爆撃調査団による小沢への質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月30日(英語版)[注釈 1]
- ^ 『丸』昭和32年(1957年)11月特大号 P79潮書房
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』[注釈 2]
- ^ a b c d 『レイテ沖海戦1944』
- ^ a b c d e 佐藤和正『レイテ沖海戦』
- ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』『レイテ戦記』
- ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』、児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』P230
- ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』、大岡昇平『レイテ戦記』
- ^ エヴァン トーマス『レイテ沖海戦1944―日米四人の指揮官と艦隊決戦』白水社
- ^ 半藤一利『日本海軍、錨上ゲ!』
- ^ 半藤一利『全軍突撃 レイテ沖海戦』
- ^ 細谷四郎『戦艦武蔵戦闘航海記』(八重岳書房、1988)291-292頁
- ^ 佐藤大輔『逆転、太平洋戦史』論評部分
- ^ 岩佐二郎『レイテ沖の七日間』
- ^ 戸高一成『戦艦大和に捧ぐ』(PHP研究所、2007)82-83頁
- ^ 正説「レイテ沖の栗田艦隊」357p
- ^ 正説「レイテ沖の栗田艦隊」
- ^ 但し大和副砲長の戦闘配置は栗田や宇垣の居た第一艦橋ではなく数階下の副砲射撃指揮所である
- ^ 桜BBインターネット放送「人間の杜」#59/60及び『防人の道 今日の自衛隊』 2006年11月13日および15日に前編、12月に後編。当該番組の概要
- ^ 高木惣吉『太平洋海戦史』岩波新書(1959年)
- ^ a b c #奥宮、太平洋戦争344頁
- ^ 『海軍兵学校物語』「栗田校長のころ」原書房 1979年。
- ^ a b c 亀井宏「敗北提督たちの戦後史」『歴史群像太平洋戦史シリーズVOL.10 連合艦隊の最期』
- ^ 戸高一成『海軍反省会6』PHP研究所410頁
- ^ 『明治百年叢書』原書房、『証言記録太平洋戦争 終戦への決断』サンケイ新聞出版局編(1975年)、『証言記録太平洋戦争 作戦の真相』
- ^ 原勝洋『戦艦大和建造秘録』「第1章 米海軍情報部と巨艦「大和」の謎」P62 KKベストセラーズ、1999年
- ^ a b c d 亀井 2014a, pp. 17–44, 第一章 空母炎上 - 一
- ^ 阿川 1992, pp. 359–363, 第九章-九
- ^ 『海軍の回想』第23号 栗田健男他2名
- ^ a b 細谷四郎『戦艦武蔵戦闘航海記』(八重岳書房、1988)288頁
- ^ 『日本海軍史』(第9巻)、『日本陸海軍総合事典』
- ^ 草鹿 1979, p. 331.
- ^ 吉田俊雄『良い指揮官・良くない指揮官 14人の海軍トップを斬る!』光人社(単行本1996年、文庫1999年)
- ^ 『聞書き日本海軍史』第10章、PHP出版
- ^ 『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』、光人社NF文庫
- ^ 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語』
- ^ 市来崎秀丸「第三戦隊のガ島砲撃」『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ9 ソロモンの死闘 ガダルカナルをめぐる海空戦記』潮書房、1988年、151ページ
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