本田美奈子. 評価

本田美奈子.

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 17:40 UTC 版)

評価

生前の受賞・ランキングなど

デビューした1985年(昭和60年)には各種歌唱賞の新人賞を数多く獲得したが、賞レースの総本山ともいえる大晦日の日本レコード大賞第27回)では新人賞は受賞したものの最優秀新人賞は受賞出来なかった[註 8]

オリコンチャートで1位を獲得したこともなく、最高位は「HELP」「Oneway Generation」「孤独なハリケーン」の2位。累計24万枚超を売り上げ、彼女の最大のヒット曲となった「1986年のマリリン」は3位が最高だった[11]。『ザ・ベストテン』でも1位を獲得したことがなかった[註 9]

日本のポップス歌手にとってステイタス的な存在である『NHK紅白歌合戦』への出場もなかった。

本田にとっては『ミス・サイゴン』での演技を評価されて受賞した1992年度のゴールデン・アロー賞の演劇新人賞が生前に受けた最も大きな表彰といえるかも知れない。なおこのほかの生前の受賞として1987年第4回ベストジーニスト賞一般選出部門、2003年第2回日本ゆかた大賞というファッション関係の賞がある。

没後の表彰など

38歳での夭逝は本田の評価やCDの売上げにも大きな変動をもたらした。死亡する半月程前に発売されたミニアルバム『アメイジング・グレイス』は売上が急上昇、オリコンの推定累計売上枚数は17万枚を突破し、日本人が歌うクラシックアルバムとしては初のオリコンTOP10入り(7位)を記録した。『AVE MARIA』は22位、『』も39位まで上昇している。また、同じ歌手のアルバムでポップスとクラシックの両方共TOP10入りしたのも初のケースである[30]

本田の死を受けて日本レコード大賞(第47回)は特別功労賞を、ゴールデン・アロー賞は芸能功労賞を贈呈した。ゴールデン・アロー賞芸能功労賞受賞時の年齢38は、芸能功労賞の前身に当たる特別賞を受賞の松田優作(1989年度)の40(戸籍上は39)を下回る、物故者最年少受賞となった。尚、ゴールデン・アロー賞は、この他、前述の演劇新人賞を含め、音楽新人賞(1985年度)、グラフ賞(1986年度)と計4度受賞している。

記念碑が建設された朝霞駅前。時計塔の右下の部分にあるのが記念碑

幼少時代から亡くなるまで住んでいた埼玉県朝霞市は、本田の功績を称えて東武東上線朝霞駅の南口駅前広場に記念碑を建設した。これは駅前整備事業の一環として朝霞市の商工会の発案で企画されたもの。生誕40周年に当たる2007年(平成19年)7月31日に本田の母、所属事務所社長の高杉敬二、親友の早見優らの臨席の元、除幕式が行なわれた。闘病中に書いた「笑顔」と題する詩と本田の写真のパネルがはめこまれ、「ありがとう。心を込めて... 本田美奈子」という言葉が刻まれており、ボタンを押すと「新世界」の歌声が流れる仕組みになっている。

関係者・評論家等の声

アイドル時代に本田の楽曲の歌詞を数多く手がけた秋元康は、プロとアマチュアの境界が曖昧になっていた当時のアイドル・シーンの状況を踏まえ、本田のプロ意識の高さを評価していた。テレビのインタビューに答え、「本田美奈子さんというのは徹底したプロで、全てに関して真剣になるし、それだけプロ根性がすわっている女の子じゃないかな、と思います」と語っていた。

ミス・サイゴン』でエンジニア役として共演した市村正親は、本田の没後に寄せた言葉の中で彼女のミュージカルでの活動を「なくてはならない存在」と称えた[20]。彼女のこうした活躍の要因として、本田の恩師の一人である作曲家の服部克久は彼女の歌声にはミュージカルに必要な悲壮感があったことを指摘し、それは亡くなった後だからそう思うのではなく、彼女が生来持っていたものだと述べた[31]。『ミス・サイゴン』でボイストレーナーを務めた山口琇也は彼女の第一印象を「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのもの」と語った[32]。『ミス・サイゴン』や『レ・ミゼラブル』の作曲者、クロード=ミシェル・シェーンベルクは『ミス・サイゴン』の2008年日本公演に際し、「日本で役を育ててくれた本田美奈子を思い出してもらいたい。彼女は素晴らしい女性であり、キム役の仕事ぶりに感銘を受けた」と述べた[33]

『クラウディア』での共演を通して親しくなったYU-KIは、2004年(平成16年)12月の『Act Against AIDS』における本田の「ジュピター」と「1986年のマリリン」の歌唱を舞台の下手で聴き、「素晴らしいというのも通り越して、なんか魂が飛んでくるような感じ」を受けたと話した[5]

音楽評論家の伊熊よし子はクラシカル・クロスオーバーの領域で本田が新たに開拓した音楽の世界を「時代の風を感じさせる」、「背中を押してくれる追い風のような存在」と評した[18]。編曲を務めた井上鑑は彼女の音楽のあり方を、「一夜限りで消えてしまうような祭礼ではなく一輪の花の美しさが突然人の心をとらえて何時までも面影を残すような、そんな奇跡が当たり前のように毎日起きていた」と形容した[34]


注釈

  1. ^ 「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」と言われて2004年に本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「.」をつけ改名。読みは変わらない。
  2. ^ ちなみにこの回のグランプリは松本が獲得した
  3. ^ この時点ですでにブライアン・メイのプロデュースによる楽曲制作は決まっていたらしい[5]
  4. ^ この英語版では「GOLDEN DAYS」の方がA面扱いになっている。
  5. ^ 酒井は『ミス・サイゴン』の担当ではなかったが、ロンドンでこの作品を見て一月も経たない頃に高杉、本田と会食する機会があり、彼女の印象がヒロインのキムと重なったことからオーディションへの参加を勧誘した。
  6. ^ 本田は情報誌プチぶんか村の2002年8月号に寄稿したエッセイ「小さな幸せを大切に…」の中で「私はいつも、『人の心を動かせられる様な歌をうたえる歌手になりたい』と思っています。…でも悲しい事に、最近、愛と心と情熱で、音楽を手作りでつくる人がとても少なくなってきてしまいました」と述べていた[17]
  7. ^ この翌日に同じ会場で行われたコンサートが一般の観客を前にしたものとしては最後のコンサートとなった。
  8. ^ この年の最優秀新人賞はTBS系列のテレビドラマ『毎度おさわがせします』に出演していた中山美穂が受賞した。
  9. ^ ドリーム・プレス社』の追悼特集ではスタジオに『ザ・ベストテン』放送当時のセッティングが用意され、最後に「アメイジング・グレイス」が9999点で1位として紹介された。
  10. ^ デビュー当初、工藤夕貴と従姉妹関係にあるという噂があったが、工藤は本田の没後の取材に対し「噂である」と否定している、ただしデビュー当時はよく似ているとは互いに言われたとの事。
  11. ^ 当時人気絶頂だった松田聖子マツダにちなんで芸名をつけたと噂されていた[要出典]
  12. ^ 中島も本田の急逝から約1年後の2006年12月20日に亡くなった。
  13. ^ 本名では迷惑がかかるからと友人の名前を借りてファンクラブに入会していたほどだった。
  14. ^ BS hiで2008年2月25日に放送。3月3日に同チャンネルで再放送されたほか、3月24日には再編集されたものが総合テレビで放送されるなど、その後も何度も再放送されている。またNHKがBS放送20周年を記念して行った視聴者のアンケートでも17位となり、BS二十歳の名作集として放送された。
  15. ^ アルバム『』の発売の際の手書きの手記にはテレビの報道を見て知った水谷修の活動に感銘を受けたことを綴っている。
  16. ^ 2004年7月の東京芸術劇場及び梅田コマ劇場での「レ・ミゼラブル in コンサート」にもエポニーヌ役で出演した。2005年公演ではファンティーヌ役で出演を予定していたが病気のため休演を余儀なくされた。新たな代役は立てられず、同時にキャスティングされていたマルシア井料瑠美が本田の出演予定日を務めた。
  17. ^ 2005年公演では『レ・ミゼラブル』でエポニーヌ役を本田とダブルキャストで演じた島田歌穂が代役を務めた。
  18. ^ 2005年公演ではプライベートでも親交のあった工藤夕貴が代役を務めた。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 別冊宝島 2017, p. 91.
  2. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
  3. ^ a b c d e 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、138頁。NDLJP:12276264/70 
  4. ^ “最後は微笑んで…本田美奈子さん白血病で死去/復刻”. 日刊スポーツ. (2016年11月7日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1726384.html 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 天に響く歌 2007.
  6. ^ a b c d e f 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談 ゲスト:高杉敬二 がんサポート情報センター 2006年7月、2010年8月1日閲覧
  7. ^ 最後は微笑んで…本田美奈子さん白血病で死去/復刻”. 日刊スポーツ (2016年11月7日). 2023年10月24日閲覧。
  8. ^ 1990年4月22日放送の『ミュージックフェア
  9. ^ 『スポーツニッポン』1990年11月1日
  10. ^ 1986年度作品|ACジャパン
  11. ^ a b “本田美奈子.のラストメッセージが未完の20周年記念盤に!”. ORICON NEWS. (2006年4月20日). https://www.oricon.co.jp/news/19122/ 
  12. ^ 写真集『キャンセル』
  13. ^ “映画ヒットで思い出す、クイーンが愛した本田美奈子”. 日刊スポーツ. (2019年1月16日). https://www.nikkansports.com/entertainment/column/umeda/news/201901160000272.html 
  14. ^ 【新連載】 アイドルからクラシック・クロスオーバーまで ポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた20年|かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史|ダイヤモンド・オンライン
  15. ^ a b ミュージカル座のオフィシャルサイトの本田の追悼ページ に彼女の舞台での写真とともに掲載されている。
  16. ^ 「ミス・サイゴン」から「蝶々夫人」へ、初めてオペラのアリアを歌った日(1996年)”. ダイヤモンド社 (2012年10月19日). 2020年4月19日閲覧。
  17. ^ 本田美奈子 (2002年8月). “ぶんか村エッセイ(15) 小さな幸せを大切に・・・”. プチぶんか村 (ライン出版). http://rein2000.c.ooco.jp/2002-08.html#No2 
  18. ^ a b アルバム『AVE MARIA』のライナーノート
  19. ^ 本田美奈子の魅力、いつまでも輝き続ける永遠の歌姫”. Re:minder (2017年8月10日). 2020年4月19日閲覧。
  20. ^ a b c 『日刊スポーツ』公式サイトに掲載された 「おくやみ」
  21. ^ 入絵加奈子 ファンサイト に寄せられた入絵本人からのメッセージ
  22. ^ 本田美奈子.享年38〜急性骨髄性白血病(AML)が奪った3オクターブの美声!”. HEALTH PRESS. 2023年9月15日閲覧。
  23. ^ “田村芽実、芽吹いた和のココロ アイドルからミュージカル女優へ、重なる本田美奈子.の背中”. 夕刊フジ. (2020年4月18日). https://www.iza.ne.jp/article/20200418-IDEXMECS4JPO7LWB6JQMQ4J4HI/2/ 
  24. ^ a b 『女性自身』2007年4月17日号
  25. ^ 新世界 本田美奈子”. 音楽コラボアプリ nana (2016年10月4日). 2020年4月19日閲覧。
  26. ^ 特集ワイド 会いたい・2019夏 本田美奈子.さん 声と魂で訴えた愛と平和」『毎日新聞』、2019年8月22日、東京夕刊。
  27. ^ 11月6日は本田美奈子が亡くなった日”. CHRISTIAN PRESS (2019年11月6日). 2020年4月19日閲覧。
  28. ^ a b 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談/高杉敬二さん
  29. ^ 2006年1月22日山形交響楽団の有志によって行われた『本田美奈子.追悼 白血病撲滅チャリティーコンサート』で本田直筆の手記を印刷したパネルが展示されていた。
  30. ^ “本田美奈子.さん、驚異的なランクアップ!18年5ヵ月ぶりのTOP10入り!”. ORICON NEWS. (2005年11月22日). https://www.oricon.co.jp/news/2765/ 
  31. ^ 本田の一周忌に開催された追悼コンサートでのコメント
  32. ^ 朝日新聞』2005年11月14日、東京夕刊、10ページ
  33. ^ 進化続ける ミス・サイゴン」『読売新聞』、2008年7月25日。オリジナルの2008年7月30日時点におけるアーカイブ。
  34. ^ アルバム『心を込めて...』のライナーノート
  35. ^ 田村芽実、憧れの本田美奈子.さん役で女優として本格始動「天国の本田美奈子.さんに“私を選んで”とお祈りしてました」”. De☆View. オリコン・エンタテインメント (2017年2月16日). 2020年4月19日閲覧。
  36. ^ 現在でも公式サイトの 過去ログ で閲覧可能。
  37. ^ この時の模様は現在本田美奈子さんに捧ぐ - YouTubeで確認することができる。
  38. ^ 支援キャンペーン:本田美奈子.(公共広告機構公式ページ)
  39. ^ 本日出版!「アメージング・グレース」物語 ― ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝
  40. ^ 本田美奈子.のラストメッセージが未完の20周年記念盤に!”. ORICON (2006年4月20日). 2023年1月26日閲覧。
  41. ^ 『スポーツニッポン』2006年9月16日
  42. ^ アルバム『PRAHA』のライナーノート
  43. ^ 『スポーツニッポン』2006年1月14日
  44. ^ 『サンケイスポーツ』2006年5月22日
  45. ^ アメイジング・グレイス / ヘイリー duet with 本田美奈子. - YouTube
  46. ^ ヘイリー「アメイジング・グレイス duet with 本田美奈子.」について - サモンプロモーション・スタッフブログ
  47. ^ 本田美奈子.さんブライアンと“共演” - 芸能 - SANSPO.COM
  48. ^ “本田美奈子.の生涯綴る物語「minako-太陽になった歌姫-」上演決定”. ステージナタリー. (2016年12月5日). https://natalie.mu/stage/news/211982 2016年12月5日閲覧。 
  49. ^ 本田美奈子 - オリコンTV出演情報






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