旭川 (秋田県)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 08:51 UTC 版)
旭川 | |
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秋田市中心部を流れる旭川 | |
水系 | 一級水系 雄物川 |
種別 | 一級河川 |
延長 | 22 km |
平均流量 | -- m³/s |
流域面積 | 223 km² |
水源 | 秋田県秋田市仁別地区 |
水源の標高 | -- m |
河口・合流先 | 旧雄物川(秋田市) |
流域 | 秋田県 |
地理
秋田市北東部の太平山塊にある旭岳・赤倉岳・馬場目岳などの西側山腹に源を発し、旭又沢・赤倉沢などを集めて旭川となる。中流域から下流域にかけて秋田市の市街地を流れ、茨島地区で秋田運河(旧雄物川)に合流する。
歴史
古来、流域の村落に由来して「仁別川」「添川」「泉川」「保戸野川」などと呼ばれていた。現在は神明山(久保田城址)の北部から西部へと流れているが、築城以前には神明山東部を流れて低湿地帯を形成していた時期もあり[注釈 1]、現在の地名または旧地名で言うところの手形・楢山字長沼・広面字赤沼など水に纏わる地名の由来になったとされている。
慶長9年(1604年)に神明山へ久保田城が築城された際、それまで神明山の直下を流れていた[注釈 2]仁別川を西側へ掘り換え、一部残された旧流路とともに西側外堀とした。そのため城下では「堀川」とも呼ばれ、また新流路を「新川」、旧流路を「古川」と呼ぶこともあった。現在の千秋明徳町の西部一角が1966年(昭和41年)まで「古川堀反町」といったのは、古川を改修した堀に沿う町であることによる。更に南に隣接する中通一・三・五丁目の一部(旧町名でいう上長町・中長町・下長町)は、江戸時代初期の絵図に「古川町」と書かれており、古川を埋め立てて造られた町であることを示している。
「旭川」の名は、雅名を求めていた久保田藩士たちの意を受け九代藩主佐竹義和が菅江真澄に命じて名付けさせたもので、源流の旭岳に因んでいる。その後も複数の呼称が併用されたが、明治になって「旭川」を正式名称としたため定着した。
治水
農業用水・飲料水としても盛んに利用され、1911年(明治44年)に完成した藤倉水源地は1973年(昭和48年)に取水停止されるまで秋田市の重要な水源であった。しかし同時に度々洪水を起こす「暴れ川」としても知られており、市街地では土手が高く積み上げられた[注釈 3]。土手は昭和20年代に道路拡幅のためほぼすべて削り取られたが、1972年(昭和47年)に旭川治水ダムが完成したことにより現在では水害は起こらなくなっている。
保戸野川反橋たもとの「鷹の松」と保戸野新橋たもとの「鑑の松」が立つ土累は、かつての土手の高さをそのままに残しているとされる。
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鷹の松
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鑑の松
流域の自治体
- 秋田県
- 秋田市
支流
下流より記載
- 太平川
- 仁別沢
- 砥沢
- 大杉沢
- 軽井沢
- 小荒沢
- 大荒沢
- 旭又沢・赤倉沢 - 合流点から下流が旭川と呼ばれる
注釈
- ^ 筑波大学の渡部景隆教授の調査によると、旧手形休下町、旧手形谷地町、旧手形堀反町を経て、旧長野町の台地下を流れ、現旭川の下流に到ったという。
- ^ 奥羽本線中島鉄橋付近から現在の千秋中島町南部を通り、五丁目橋付近で現流路と合流していた。
- ^ 土手に沿った街は「土手長町」と呼ばれた。現在の千秋明徳町と中通一・三・五丁目に相当し、地名は使われなくなったが「土手長町通り」に名を残している。
出典
- ^ 全国Q地図 - 全国道路構造物マップシリーズ - 一号橋
- ^ 広報あきたオンライン No.1702
- ^ 秋田市建設部道路維持課 平成21年度橋台清掃業務委託箇所図 (PDF, 1.2 MiB)
- ^ “住居表示新旧対照一覧 ア(旭川、新屋)”. 秋田市 市民生活部生活総務課. 2012年10月3日閲覧。
- ^ “住居表示新旧対照一覧 ソ(外旭川)”. 秋田市 市民生活部生活総務課. 2012年10月3日閲覧。
- 1 旭川 (秋田県)とは
- 2 旭川 (秋田県)の概要
- 3 橋梁
- 4 参考文献
- 旭川 (秋田県)のページへのリンク