広隆寺 木造弥勒菩薩半跏像

広隆寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 00:27 UTC 版)

木造弥勒菩薩半跏像

弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)

国宝。広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち「宝冠弥勒」と通称される像で、新霊宝殿の中央に安置されている。

様式と制作地

像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている[10]

制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説が有力である。日本で制作されたとする仮説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする仮説があるが定かではない。朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される推古天皇31年(623年)、新羅に請来した仏像がこの像に当たると考察される。

『広隆寺資財交替実録帳』の金堂の項をみると、安置されている仏像の中に2体の「金色弥勒菩薩像」があり、1体には「所謂太子本願御形」、もう1体には「在薬師仏殿之内」との注記がある。「太子本願御形」の像が宝冠弥勒であり、「在薬師仏殿之内」(金堂本尊薬師如来像の厨子内にある)の像がもう1体の宝髻弥勒にあたると考えられている。

エピソード

篠原正瑛によれば、ドイツの哲学者カール・ヤスパースがこの像を「人間実存の最高の姿」を表したものと激賞した[11]

戦後まもなくの1945年(昭和20年)11月、新100円札の意匠に採用されたが、原図の製版を始めたわずか4日後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から「暗い顔」「われわれがいつ帰国するか、黙想にふけっているのであろう」などのクレームが入れられ、印刷に至らなかった[12]

1960年(昭和35年)8月18日、京都大学の20歳の学生が弥勒菩薩像に触れ、像の右手薬指が折れるという事件が起こった。この事件の動機についてよくいわれるのが「弥勒菩薩像が余りに美しかったので、つい触ってしまった」というものだが、当の学生は直後の取材に対し「実物を見た時"これが本物なのか"と感じた。期待外れだった。金箔が貼ってあると聞いていたが、貼られておらず、木目が出ており、埃もたまっていた。監視人がいなかったので、いたずら心で触れてしまったが、あの時の心理は今でも説明できない」旨述べている。なお、京都地方検察庁はこの学生を文化財保護法違反の容疑で取り調べたが、起訴猶予処分としている。また、折れた指は拾い集めた断片をつないで復元されており、肉眼では折損箇所を判別することは不可能である。

本像についてしばしば「国宝第1号」として紹介されるが、本像と同じく1951年(昭和26年)6月9日付けで国宝に指定された物件は他にも多数ある。本像の「国宝第1号」とは、国宝指定時の指定書及び台帳の番号が「彫刻第1号」であるということである[13]

切手の意匠になった。








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