宗義誠 宗義誠の概要

宗義誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/21 02:29 UTC 版)

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宗 義誠
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 元禄5年3月15日1692年4月30日
死没 享保15年11月6日1730年12月15日
改名 増之介(幼名)、氏江方誠(初名)、義誠
別名 式部(通称)
戒名 大雲院殿玉橉高岳大居士
墓所 長崎県対馬市国分の万松院
官位 従四位下、侍従対馬
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
対馬府中藩
氏族 宗氏→氏江氏→宗氏
父母 父:宗義真、母:右門(佐々木氏・法性院)
養父:宗義方
兄弟 義倫、古川真言、義方、多田倫寛、義誠方熈、高瀬行方
正室:樋口真峯の娘・仙寿院
義如義蕃、娘(松平忠名正室)、娘(醍醐経胤室)、娘(藤堂高治正室)、養子:方熈
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生涯

元禄5年(1692年)3月15日、第3代藩主・宗義真の七男として生まれる。元禄16年(1703年)1月、兄で第5代藩主の義方より800石を与えられて別家の氏江家を興すとともに、義方より偏諱を賜って氏江方誠(みちのぶ)と称した。享保3年(1718年)、兄の義方が死去したため、その養子として家督を継ぎ、第6代藩主となり、宗義誠に改名。12月に従四位下、侍従・対馬守に叙位・任官された。

藩財政を再建するため、倹約令を出すなどしたが効果は無く、ますます財政難が促進された。享保15年(1730年)11月6日、嫡男・義如を伴って江戸へ赴く途上であったが、大坂で病に倒れて死去した。享年39。義如は若年だったため、弟の方熈が養子となって跡を継いだ。

偏諱を与えた人物

義誠時代

  • 古川恒(義誠の兄・古川真言の養子。また、娘の修性院は義誠の次男・義蕃の正室となる)





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